KIRACO(きらこ)

Vol137 船橋の海から令和を見る

2019年7月2日

湊町暮らし

船橋の海から令和を見る

 元号が「令和」に。昭和14年(1939)生まれ、東京湾に生かされて、ふと昭和、平成を振り返る。物心が付いて、はっきり記憶に有るのは「米軍の空襲」だ。毎晩夜が更けると決まって空襲を報らせる「サイレン」が鳴る。母は「ハダカ電球」を傘ごと黒色の布で出来た覆いをかぶせる。寝惚けまなこの弟と私を起こし枕元の煎り米を容れた、小さな缶の入った、ガーゼ製の、ポシェットを二人の肩に掛け、南側の勝手口から浜に近い空地に、母方の祖父が掘った小さな防空壕に避難する。
 父は中国大陸の北支に出征して留守だ、東京大空襲が始まり、東京の空は一面真赤に染まり幾日も消えない。続いて千葉、横浜と大火災が続く、つぎは船橋かと、急遽母方の田舎、漁師町から北へ一里離れた「下飯山満村」に親子3人、祖父母と母の兄弟達、そして子達と疎開した。
 その時「油蝉」が暮れの「第九合唱団」より大迫力で鳴いていた昭和20年8月15日、「ラジオ放送」を大人も子供達も正座して聞いた。「蝉」の大合唱はなぜか聞こえず、負戦を告げる「天皇陛下」の声をハッキリと聞いた。この時から空襲の心配もなく、子供達がどうしてもしたかった「谷津田の小川」で心行くまで水遊びを、川は底から澄み切った水が湧き出ていて、「ゲンゴロウ、水スマシ、ヤゴ、メダカ、赤蛙」等の生き物で溢れていた。
 同じ様な谷津田の小川が幾筋も「海老川」の支流として注いでいた。
 漁師町から峰台の下(現在市船高校)の田圃道を経て、七熊(東町)を通り吹上、そして高根に至る道路は拳程の石塊と土埃に覆われ、馬車の行き来で轍の跡が深く削れ、人通りは稀で、静かで淋しい街道が飯山満への道だった。
 父の安否がはっきりしない。が間も無く復員することを信じて母は早急に漁師町の家に帰った。
 母の日課は、毎日「佐倉の鉄道連隊」に父の消息を確かめる事だった。
 家は海老川の近くで、夏の遊びは、「船橋橋から川へ飛び込むこと、川口域で葦原ガニ(太田ガミ)を捕まえること」。川口域の海辺にも地下水が湧き出ていて、その先は高瀬干潟で今のサッポロビールの所まで干出し、見渡すと甘藻が水際線に沿って絨毯を引き詰めた様に茂っていた。そこはサヨリの産卵の場で「サヨリ」の好漁場だった。
 普段の遊びは、「ベイゴマ、メンコ、将棋、三角ベースの野球」、ボールは軟球、グローブは布製でボール当てに皮革がはってあった。間もなくして、父が無事復員した。明くる日から「鰯」」漁に、浜は賑いを取り戻し活気に溢れていた。毎日「鰯、芝えび、がざみ、シャコ、甲いか、貝は赤貝、小わか、ベイ貝、ハマグリ、浅利、そして貝卸屋には富津から大量の平貝が、浜には「甲いか」の甲や貝殻が山に積まれていた。これ等が現在特に見えないものの代表だ。
 昭和26年(1951)「サンフランシスコ平和条約」が、戦後の復興を急ぐ為に全世界でなく共産圏を除く西側だけと結んだ、同年食糧事情が有って、水産資源保護法を制定、翌年「日・米・加三国漁業条約調印」、遠出をして鯨を捕獲すれば、牛何10頭分、育てる時間もいらない。この頃から日本沿岸は工業地帯に、漁業政策は遠洋へと。
 船橋漁協では埋立問題が、高瀬11万5千坪を、時の松本市長の財政策に、市原漁協会長が同意、社団法人船橋ヘルスセンターが昭和28年に土地譲渡を条件に市から埋め立て委託を受け、昭和29年に埋立完成。
 昭和35年(1960)池田勇人内閣、「所得倍増計画」決定。昭和36年「港湾整備緊急措置法」公布(5ヶ年計画)、船橋市漁協昭和36年日の出地区、西浦地区の埋立、一部工業地帯として、造成し完成。国は昭和37年(1962)臨海工業地帯開発計画発表。この頃の様子が中央公論社刊「世界の旅」に紹介。
つづく


旬の味

 四月三日舟まつりが。水神祭ともいう、昔はこの日に、覚王寺の水神様の紙札や木札をいただいて、各漁船に供え貝漁から、魚漁に。幕末の末、「海苔養殖」が盛んでなかった頃は、冬場に貝漁をやっていた。冬場は水温が下がり貝は地中深く潜り、春秋より漁がしづらいはずが、冬を中心に貝漁を、よほど貝の資源量が有ったのだ、道具も人力で今現在より劣っていたと思うが。
 水神祭が終わると魚漁に、当時は明確な漁暦が有った、それは日中の時間が長くなることで水温がそれに順じて緩やかに上がった。今と異なり、内湾域は広大な干潟に覆われ、干潟で暮らす小動物が豊富で、その卵や幼生で動物性プランクトンが豊かだった、湾を取り巻く河川は春には水量を増し湧水も豊富で淡水のプランクトンを海まで運んだ河川水が豊かだと海水に遡上も激しく河口湾である東京湾は山からの水の供給によって、季節感が有り、春には春の、夏には夏の、秋には秋の、冬には冬の趣が。