KIRACO(きらこ)

蘇った記憶

五月の終わりに生まれ故郷の「台湾」に行ってきました。十五歳まで育った懐かしい土地です。
 どんなに日本に馴染もうとしても、私の中に流れる血は、何故かあの活気に満ちた灼熱の街を忘れることが出来ずにいるのです。
 付き添いのボランティアも交え、総勢六十人の賑やかな同窓会旅行でした。

 実は私の卒業した小学校が今年「創立百周年」に当たり、現在も「建成国中学」として使われているのですが、その母校からのご招待も受けていたのです。
 卒業して丁度七十五年。当時は全校生徒二千人を超すマンモス校でした。
 その建物は現在もほとんどそのままの形で残されていて、いつ行っても赤レンガの校舎が暖かく私達を迎え入れてくれるのです。
 百年前に学校を作ったのはもちろん日本政府。当時の躍進的な日本を象徴するかのような立派な建築物は他にも数限りなくあります。
 例えば総統府・大学病院・公会堂・博物館など、今もそっくりそのまま保存されていて、当時の日本の国威発揚の意気込みを窺える、まさに歴史的な建造物の数々…。

 でも私が心を動かされるのは、百年を優に超すそれらの建築物を、今日に至るまで保存し続けてくださった台湾側の配慮です。
 総統府など、B29の爆撃で、一部分は壊滅的な被害を被り、無残な姿をさらけ出していたのですが、今では全くそのあとを留めず完全に修復されており、日本統治時代の尊厳そのまま。
 今回も私たちの訪台の為に副総統が貴重なお時間を割き、記念写真にも入ってくださったのでした。
 まる四日間の旅程は今思い出しても我ながら驚くほどのハードなものでした。
 ナカダは「逆さ歌ライブ」のお声をかけて頂いていたので専用のキーボードまで日本から背負って行ったのです。
「當代芸術館」のホールで台湾の代表的な歌曲「雨夜花=ウーヤーホエ」をシッカリ逆さに演じてきました。
 その他、戦後、引揚げ船が出港した哀しい想い出の地「基隆港」へ趣き、市長さんから暖かなお言葉を頂いて、一同ウルウルの大感激でした。
 それ以外にも母校での盛大な「歓迎同窓会」、更には現地の若い人たちとの「交流お話会」も催され、「湾生」(日本統治時代に台湾で生まれた人)は引っ張りだこ!当時の生活についての質問攻めに会い、みんなそれぞれ懐かしそうに一つひとつ受け答えしていったのでした。

 それだけならまだしも!ナカダのそういったあたりの事を「ドキュメンタリー」に…という事で、テレビ局が日本からずっと追っかけての密着取材。常にカメラが向けられているので何時どんな場面を撮られるか分かったものではありません。気を抜くヒマもあらばこそ!の連日でした。

 そんな中、私にはもう一つどうしても行ってみたい…というか探し出したい場所があったのです。
 私は以前このキラコにも何回か書かせて頂きましたが、女学校の二年生の時、十二人もの特攻隊員をこの地で見送りました。
 彼らと初めて出会い、最期まで私のことをほんとうの妹のように可愛がってくださった若いお兄さんたちとの想い出の場所をどうしても探し出したかったのです。
 幸いなことに以前、毎日新聞で私を大きく取り上げ、記事にしてくださった女性記者の方が同行していて、しかも彼女は前もって綿密に調べ上げ、「ここぞ!」という目星を、台北郊外の旧料亭に付けていて下さったのです。
 過密なスケジュールの合間を狙い、二人は団体を抜け出しタクシーに乗り込みました。(正確には四人です…例のTVのカメラマン達も!)限られた時間の内に何とか!と、祈るような気持ちでした。
 そして遂に!料亭「紀州庵」の疉敷きの大広間に立ったとき、一時に蘇った記憶…。

 ああ、ここだ!ここで!
 十二人の若者の息吹きがまだそこここに残っているようなお座敷…
 今は料亭ではなく台湾の文人たちの寄り合い場所だとか。中国語で書かれた案内文が壁に掲げられ、その中に「旧日本軍神風特攻隊在所」の文字が。
 涙で霞むそれらの文字を前に、ただ無言で立ち尽くすだけ…の、ナカダなのでした。