コロナに負けず 千葉から世界へ文化を
梅雨明けと共に暑さがどっとやってきた。
八月に入って最初の日、久し振りにヤマハホールで行われる水谷八重子のリサイタル「命ある限り」に行った。一時間半、たっぷり歌われる。間にトークが大分入ったけど、さすが新派の看板女優さんだ。話はおもしろいし、間がいい。でも一番感動したのは、歌の素晴らしさなのだ。なつかしい曲を、次々に十数曲歌われた。ほとんどがジャズだった。
ご一緒して頂いた、米山鉄工所社長の米山さん他、皆さん七十歳をこえている方々は、なつかしいと感慨にふけっていらした。
水谷八重子さんといえば、八十二、三歳になるのかなあ、一時間半のステージを一人で立派にこなされる姿勢に私は一番感激していた。力を頂いた気がした。がんばらなくちゃと、勇気をさずけて頂いた気分になれた。
本当にコロナは、経済にも大打撃を与えているが、文化も殺してしまうと思う。お芝居も音楽会もまったく出来なくなってしまったのだもの。この水谷八重子さんの会だって二回延期となり、やっと三回目で実現したのだもの。席数は三分の一になっている。エレベーターも四人ずつ乗る。誰も文句を言う人は無く、行儀よく、指示に従っていた。千葉から車で出かけたが、やはりコロナのためなのだろう。高速道路はすいていた。
食事は、皆で、銀座の鳥ぎん本店の予定だったが、時間が余ってしまった。そこで同行した友達が東京へあまり出たことが無いと言うので、まず六本木へ。
私より少し年上の彼女は、大きい農家の嫁で今は、ご主人も他界され、お子さんも立派に巣立った今、楽しいことだけしようと言っている明るい人だ。せっかくの東京だもの。楽しませてあげたい。そう思い国際文化会館の喫茶室へ案内する。六本木にありながらここには、緑がいっぱい。せみの声がうるさかった。
彼女は「東京でもせみが鳴くのだねえ」とビックリしていた。ここは私にとって忘れられない場所の一つだ。妹がここの会員だったので私もよく来ていた。
妹は私とは性格がまったく違った。
アメリカ人と学生結婚し、絵描き志望だった。おしゃれで、わがままで、働いた事の一度も無い人だった。三年前、いくらも入院しないのにあっという間にこの世を去ってしまった。
三歳違いだったが、妹というよりは姉のような感じだった。私の両親は、これからは、英語が話せなければダメだと考えたらしい。私が五年生の時、英語の家庭教師を頼んで子供達に英会話を学ばせた、四人きょうだいだったが、妹だけが、上達が早く中学生になる頃には、かなり上手になった。私と二人の弟は、ダメだった。
妹はかなり年上の早稲田大学の外国人教師と結婚した。夫に先立たれはしたものの、さまざまな国へ出かけ、気に入れば、二か月間程、滞在し帰国しても、またすぐの他の国へ旅立ったりしていた。子どももいない独身なので自由だったのだろう。
私はそんな妹を批判的に眺めていた。今でも妹を思い出すと、せつない。もっと優しくしてやればよかったと後悔が走る。
時々国際文化会館を訪ねるのは、妹との思い出をたどれるからなのだ。
その後、銀座へむかう。
私は、二十年近い月日を、くる日もくる日も銀座に通っていた。割烹店とクラブをやっていたから。結婚と同時にすべての店をやめ四街道へ来た私は、その後めったに銀座には行かなくなった。
結婚当初は、東京が恋しくてならなかったのに住めば都と言う言葉があるが本当にそうだ。
食事をした鳥ぎんは、私が高校生の頃良く通った店。なつかしかった。あまり変わっていない気がするが、ほとんど、改装もしていないのだろう。
わいわい言いながら、焼鳥やかまめしを食べる。本当に久し振りだったけど、味は変わってないと思う。ただ、年齢(とし)をとったなあと実感。
だって、昔のようにたくさん食べられなくなったもの。老いは確実に、追いかけてきているらしい。ヤマハホールを満足いっぱいで後にしてから、帝国ホテルの十七階のラウンジに行く。コロナのせいだろう。帝国ホテルもひっそり。ラウンジから見おろす、銀座の夜景に同行者達は、大喜び。ちょっと気取ってカクテルなんか飲みながら、それぞれが過ぎ去った若き日の話をする。時間のたつのを忘れてよく飲んで、よくしゃべった。
「ヨーコちゃん、コロナ移ったら大変だよ」。たくさんの方に心配される。
ありがたいと思う一方で、人に迷惑をかけないようにして、出かけようと決めている私だ。