KIRACO(きらこ)

寂聴さんの訃報!

一瞬息を飲む思いでした。

朝日新聞の文化欄に毎月第二木曜日、連載されていた心温まるエッセイ《残された日々》を、いつも心待ちにしていた私。

(ああ、こんなにお歳を召していても文章に向き合う思いさえあれば、人間幾つになっても衰えないで書き続けることが出来るものなのだ!)

おこがましいとは知りつつも、私は密かに勇気を頂いていたのです。

十歳近く歳は離れていましたが、「瀬戸内晴美さん」として小説を書いていらした頃の「夏の終わり」「花芯」など、どちらかといえば《妖艶な女の業》・・・まるでマグマのように、内から込み上げる何か情念のようなものを感じさせられる、そんな筆致に、当時まだ若かった私はトキメキを抑えようもなく読み耽っていたものでした。

でも、当時はまさかその後仏門に入られるなどとは誰も思っていなかったでしょうし、作家瀬戸内晴美に対する読者=特に女性の=反応は必ずしも《肯定派》ばかりではなかったような気がします。

その頃私は「雪割草」という、ささやかな同人誌に加わっていたのですが、その合評会の折りにも、時折り話題に上ることがありました。

女子大生とか若い女性たちの間では、瀬戸内晴美は《ちょっとアクの強すぎる存在》・・・そんな発言も飛び交っていたのを憶えています。

もしも寂聴さんが、あのまま出家なさらず、普通の女流作家として新しい作品を世に送り出し続け、その生涯を閉じられたとしたら?

恐らく人々は寂聴さんの訃報に、ここまでの喪失感は受けなかったと思うのです。

晩年の《法話活動》はテレビでもよく報道され、又、私生活に密着したドキュメンタリーからも、晩年の寂聴さんのお姿を垣間見る事が出来ていました。

そこで感じるのは寂聴さんの《愛らしさ》。そしてなによりそのエネルギッシュな心のありよう!

彼女が発する言葉の一つ一つにどれほど多くの人々が生きる上での指針を頂けた事でしょう。

これは私の持論なのですが、《神様は私たちを世に送り出すにあたって、一人ひとりに、それぞれ身丈にあったエネルギーを手渡して下さっているに違いない・・・》と。

寂聴さんなど、きっと特別密度の高い何かを授かってお生まれになったに違いありません。

それを感じるのは、愛を貫かんがために夫を捨て、愛しい我が子をも置いて家を出たという事実。

よほどの強さが無い限り取れない行動だったはずです。

(実は私、この歳でありながら、一人息子に対して未だに《子離れ出来てない!》などと、周囲から呆れられる、情けない母親なもので。不肖ナカダには想像もつかないといった世界なのです。)

でも、その時の寂聴さんの貫き通した情念の深さ→そして年下の若い男性のもとへとひた走った至福の刻々・・・それも私にはよく解ります。むしろその勇気に拍手を送りたいし、その強さが羨ましい!

それにつけても考えさせられるのは、最近の社会、何故こうまで男女の機微について大袈裟に目くじら立てて、暴き通さなければならないのか!

別にそれを野放しにしてもよいと言うワケではありませんが、政治家にしても芸能人にしても、《その一事》が命取りになって居場所を失うという、そんな場面を私たちは幾度見せつけられた事でしょう。

それまでテレビで素晴らしい演技をみせていた人が、その一件以来ぷっつりと姿を見せなくなったり。

思ってもみてください。いにしえの昔から、内外の文学名作の中でこの流れに添って書かれたものが如何に数多いかを。

そう言えば以前、中年の友人から

「最近コロナで閉じこもって、本ばかり読んでます。中田さんおススメの本あったら教えて下さい」とのメール。

思いつくままに

《トルストイの「★アンナカレーニナ」とか「★クロイツェルソナタ」かなあ・・・

あと井上靖の「★猟銃」なんかどうでしょう?》と返したのでしたが、今思えば三冊とも《不倫》がらみ。ちょっと驚いているところです。

失脚を余儀なくされた人たちも、寂聴さんの晩年の笑顔を思い起こし、胸を張って生きるべきでは?

読者の皆さんは、どうお考えになりますか?