KIRACO(きらこ)

Vol155 櫻の思い出

2022年5月19日

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昨日まで青空の下で美しく咲いていた櫻の花に今日は冷たい雨が降りかかっています。雨が花びらを散らしてしまいそうで、心がいたみます。この季節になると必ず想い出す風景が私にはあります。私が丁度小学校へ入学した日のことなのです。東京で生まれた私ですが、もの心ついた時は市原の山奥で両親と一緒に住んでいました。私の家は昔から市原と東京に家がありました。ただし、あくまでも市原の家が中心でした。けれど私だけは四才の頃からずっと伯母と一緒に東京暮らしでした。だから当然小学校も東京の学校に通うつもりでした。子供のいない伯母が着々と入学の準備するのを眺めながら、子供心にも私は入学できる日を楽しみしていたのです。ところが直前になり、父から両親の住む市原に帰り、村の小学校に通いなさいと言ってきたのです。父はその時、村長をしていました。少しがっかりしてしまった私ですが、伯母から「すぐ夏休みになるから、そうしたらすぐに東京へ戻ってこられるからね」となぐさめられ村に帰りました。やがて入学式の日が来ました。村の学校に通うには、四キロの山道を歩いて行かなければなりません。母に連れられて校門をくぐった瞬間私の目に飛び込んで来たのは校庭に咲く満開の櫻の花でした。お友達もいないまま、学校に行くのに不安だらけの私の心の中に、櫻の花は華やかさと 同時に何とも言えない優しさをくれました。心配することもない様に、すぐ友達もたくさんできました。たしかに4キロの山道は大変でしたが、野原に咲き乱れる花々を摘んだり、小川に入って魚やカニを取ったりと新鮮な遊びがたくさん出来て、少しもつらくありませんでした。気がついたらわたしはガキ大将になっていました。私には弟が二人と妹が一人おります。弟や妹とも仲良く本当に楽しい日々でした。私は東京の小学校へ転向する運びとなりました。上の弟が三年生、妹が一年生、私たちは親元を離れて、子供達だけで後はお手伝いさんと書生さんが居てくれましたがやはり淋しさは感じる毎日でした。下の弟はまだ小さいので、両親の許におりました。私の中学校受験のための転校だったのですが、田舎でのんびり学校生活を過ごしてきたせいか、東京の学校は少しショックでした。ほとんどの同級生が中学受験のための勉強をしているのです。私もそんな中で、勉強、勉強と追い立てられ、仕方なく受験勉強しました。今考えてみれば、親が教育上の路線を引いてくれる事に感謝していいのでしょうが、市原での学校生活が眼に浮かんできてはどうして余計に学ばねばならないのかと、不満に感じていました。現在でも私は思うのですが市原の四年間の学校生活は、貴重な体験でした。当時の同級生とは今でも仲良しです。たまに市原に行くのですが、必ず会うようにしています。

どの同級生とも、なつかしく、なつかしく、思い出話しに浸ります。その後、私が割烹店の女将になったり、銀座でクラブのママをやっていた時代の事は、本に書いたり、お芝居にもなったりしていますが、子供の頃から、商売を始める前の話しはあまり書いていません。今回、そんな気持ちになったのは、櫻の花の美しさが後押ししてくれたのかな?と思っています。私は中学校の時もとっても勉強が嫌いな子でした、宝塚が大好きで、音楽会が大好きで、学校はさぼりっ放しでした。せっかく高等部、大学と進める中学校にはいっていたのですが、私は少しでも楽がしたいと願って音楽学校の高等部に入りました。ところがこれが私の見込み違いで実際は普通の高校の勉強の他に音楽の勉強がかなり入るので、結果としてわたしはかなり苦労しました。相変わらず勉強嫌いの私は、将来何になりたいのかの希望もなく、やっと他の同級生についていきました。そして、また、また、受験となり母が入学したくて、出来なかったと聞いていた学校の文学部に入りました。親に迷惑はかりかけていた私が、母が通いたかった学校を無事卒業するというのが唯一の親孝行の気持ちがした。やたらレポートを書かせられたという記憶があるので、私が今書く事を億劫がらずに出来るのは、そんな経験が活きているのでしょうか?学校を何とか卒業できた私は、思いがけず喫茶店を始め、割烹店を営み銀座でクラブを経営して二十年近い年月を通し、結婚して再び千葉に戻ってきたのです。