KIRACO(きらこ)

vol161〈〈 学問のすゞめ 〉〉

2023年5月4日

独断独語独り言

耳学問の危うさは、なんとなくわかった気になったまま放置することだ。「雀百まで踊り忘れず」迂う闊かつな話だがこれを「鉄は熱いうちに打て」とほぼ同義と思い込んでいた。ふと気になって調べた。なんと本来は「よくない習慣が抜けない」ことを言うもので、望ましい習慣について使うのは避けた方がよろしいそうだ。調べ直してよかった。不思議に思ったことは調べずにはいられない。納得いくまでやめられない。多分百まで調べ辞書の周りを踊り続けることだろう。けれど肝心なのは不思議に思えること、疑問を持てることだと思う。

収まりきれない辞書辞典…

市民大学で講座を持つことは、何事も億劫になりつつある私が姿勢を正す貴重な機会だ。行きがかり上「日本代表窓口」のような立場にあるため、少しでも確信が揺らぐようなことは調べる。徹底的に調べる。特に日本語講座では怪しい質問に不意打ちを食らう。「『さようなら』は恋人同士の別れの言葉。今生の別れのときしか使わないって聞いた」「『あなた』は失礼な言葉なの?」とくる。小学校に入学した頃、半世紀以上も前のことだけど、それほど古語を使っていたわけではなかりけり。一日は「センセーおはよぉございます」で始まり「センセーさよぉなら」で終わった。それでも翌日以降日曜以外毎日登校してたけど。一年坊主が一日で卒業退学では困る。こういう質問には取り敢えず確信のあるところを説明し、改め調べ教材にし翌週解説する。

ドイツでは「辞書を引く」という習慣がほとんどないように思える。漢語がないからか。辞書辞典字典事典私の周りには一体何種類何冊あるのか見当もつかないほどなのに。しかし日本および日本語という彼らから見れば地の果ての異国の言語文化には流石に手引きが必要だ。なのにいわゆる監修者のはっきりした「権威ある辞書」を買おうとはしない。無料あるいは安価なアプリでお手軽に済ます。これには毎回ちょっと苛っとさせられる。音声もあって便利だから、と例文を聞かせられ驚いた。「人間、顔じゃないよ」は、まぁ慰めの言葉。それを人工音声で「ニンゲンガオ、ジャナイヨ」と妙なところで区切っている。瞬時に猿面、猿人、人面魚、人面疽…と脳内連想ゲームが展開されてしまった。ニンゲンガオじゃないって言われたら、宣戦布告と見做すべし。書き順も動画で出るという漢独辞典には「算」の音読みにソロとあった。あっ算盤か。でも案山子と書いても日本の辞書の「案」の項に「か」という読みはない。土竜の「土」に「も」の読みはない。

二人称の段階

色々−それなりに−努力は重ねてはいても所詮私はすべての学芸分野で永遠の生徒である。学問のすゞめ、外野の雀に過ぎない。なかなか核心をつけずとも、周りでチュンチュン飛び跳ね続ける。それでも習う、学ぶ、疑問を解明することは楽しく、嬉しい。何より良き師に巡り会い学び、信頼おける辞書事典の扉を開け、知識の森を彷さ徨うことに幸せを感じる。不思議に思える、疑問を持てるということは学校であらゆる分野を否応なく勉強し基本に触れられたからこそだ。既得の知識があってこそ未知無知に気付ける。義務教育がなかったら、必修科目がなかったら、好きな分野にのみ留まったろう。

『学問のすゝめ』で諭吉翁は実学を尊ぶ。多分彼は哲学科など重んじてくれないだろうな。彼の生きた時代を考えれば西洋に追いつけ追い越せこそ「できる人間」の究極の使命だったろう。記憶に焼きつくのは某中高一貫校の校長の言葉「知識を横断応用し考える力を養う」だ。学校へ行こう!考える力を身につけよう!それは何にも勝る最高の護身術だ。

ところで何気なく使っている「外野の雀」どこで耳にしたろうか。調べても調べても辿り着けない。隔靴掻痒(かっかそうよう)の感に悩む今である。