KIRACO(きらこ)

九十年も生きていれば、《時代の変遷》というものを身近に感じることがあっても決して不思議ではない筈なのですが、それにしても最近のⅠTがらみの世の変化には、とても付いて行けない…それは我々高齢者のみならず還暦あたりの方々からさえもよく聴かれる言葉です。

最近では、高校の授業科目の中に新しく《情報》という教科が組み込まれているのだそうで、デジタル化が遅れている日本の教育の水準を少しでも上げようと、講師の養成に文科省は大わらわなのだとか。

ですからこの先、この傾向はもっともっと加速化してゆくはずです。

私達昭和ひとケタ世代には想像も出来なかった世界。この先、どこまで世の中変わってゆくものか、想像もつきません。私達高齢者は成人した頃まで、テレビさえ無かった時代なのですから。いえ、テレビどころか、私が結婚した頃…一九五〇年代初期、一般の家庭にはなんと冷蔵庫も洗濯機もありませんでした。

今朝、新聞を見ていたら、たまたま《樹木葬》なる見出しが出ていて、これまた大きな時代の変遷にビックリ!思わず引き込まれて読んでしまいました。

現在では海での散骨も、樹木の根元に埋めるのも、合法化されているのだそうです。そうなるとお葬式に知人を招いて、共に哀しみを分かち合うということも無く、人はごくシンプルにこの世から消え去ってしまう。そんな訳で、昭和初期生まれの我々には唯々驚く他はありません。

半世紀前のお葬式がどんなものだったか、それは地方も含め、日本国中どこも同じだったと思うのですが、まず各家庭に回覧板が回って来る。

「町内の〇〇さんがご逝去なさいました」

そこで町内会の班長は二,三人の助っ人と共にいち早くそのお宅へ駆けつける。その助っ人というのが、大体いつも同じ、いわゆるれたシッカリ者のオバサン。

お悔やみの言葉と共にそのお宅に上がり込み、お参りしたのち早速お料理の相談に入るのです。

「え?お料理?」

ビックリなさると思いますが当時はそういう場合、特別な料理だけは《仕出し屋》から取り寄せるのですが、煮物から何からお手伝い達の手で進め、ご親族を含めた弔問客のご接待まで勤めていたのです。

私自身若い頃、誘われてお手伝いに行った記憶がありますが、今思うと殆ど役立たず。のささがきを言いつけられてモタついているのを、その世慣れたオバサンに冷ややかな目で見つめられていた時の光景…今も忘れることは出来ません。

それよりもっとイヤだったのはよそのお宅の台所に上がり込む事の申し訳なさというか辛さ、なのでした。

流しの下の開き戸を開け、金属製のバットを探すように言われた時の戸惑い…もしこれが逆の立場だったら私、どんなにイヤだろうと。

もし今の世で同じことをするオバサンがいたら、家宅侵入罪で即逮捕,間違いナシでしょう。

でも当時はそうした《介入》はしきたりとして、むしろ感謝さえされていたのです。

それは当時の人々にとっては、いわば《人間同士の絆》を約束されるようなものだったのかもしれません。

それが今や、日を追って希薄になりつつある人間関係。恐らくこの先も急速に進んでいくのは明らかです。

その昔、洗濯機の無かった時代、結婚したばかりの私が住んでいた世田谷の木造アパートの洗い場で、若い奥さん達は、それぞれ持ち込んだタライと洗濯板を前にして時間をかけてゴシゴシ洗っていたものです。でも今にして思えば《あれは何という優雅な贅沢な時間だったろう》そう思われてならないのです。

地方から出て来て都会にめないでいた若奥さん同士、いろんな悩み事を話し合ったり、子供の事、夕食の献立のヒントなど賑やかにお喋りしながらのお洗濯。

あの頃は日本全体が同じように貧しく、暮らしもラクではなかったはずなのにどう考えても今より遥かにみんな生き生きとしていた!

昔の暮らしが必ずしも《いい事ずくめ》だったとは言いませんが、願わくばこの先私たちの子孫がこのIT革命をうまくコントロールして、幸せを掴み取る叡智を!と、ただそれを祈るばかりです。