KIRACO(きらこ)

Vol.168 色即是空 ー 生命の光と影

2024年7月4日

独断独語独り言

初夏、世界は色彩に満ちている。

雛が巣立ちの準備を始め、虫は忙しげに咲き乱れる花々の間を飛び回る。白から紫、赤への無限のグラデーションが美しい。ライラック、テッセン、芍薬、石楠花、薔薇とその香気は風に流れ、やがて全てが溶け合って一つの混沌とした生命体になる。

密な予定や期限が近づくと、敵前逃亡のように無性に「今しなくていいこと」をしたくなる。今季は鉛筆画のコースに途中で飛び込んだ。四回目の最終日、課題はカラーコピーの蝸牛の模写。凝視していると控えめながらしめやかな色が見えてくる。今年は蝸牛が多い。フランス料理で食卓にのぼるエスカルゴ、ドイツ語の直訳は「葡萄畑のカタツムリ」。大型で日本の可憐なデンデンムシとはやや趣が異なる。が、ジメジメ日陰にいることは同じで、実際湿った草むらや土を這い回る姿を見ると、とてもこれを食べようという勇気は出ない。けれど我が友ハリネズミにはご馳走なのだ。華やかな光に満ちた生命の世界の対極に、喰い喰われる、影と死の世界が存在する。

先日買い物に行こうと玄関扉を開けた瞬間、大型の生き物が胡桃の木のあたりで急降下し、力強い羽撃きを残し飛び去った。ほんの刹那の、衝撃的な出来事で、呆気に取られた目には鷲ほどにも感じられた。が鷲も鷹もいるはずがない。「現場」をみると白い羽が散らばっていた。あ、これはいつも必ず二羽でやってきた白黒ペアのベターハーフ。隣家の屋根にいたところを襲い地面ギリギリでとどめを刺し運び去ったのだろう。羽は軒先から垣根の辺り、そして飛び去った東の方向に点々と散っていた。あれはノスリというトビに似た鳥でアウトバーンを走ると草原の木や杭に止まっている姿をよく見かける。庭に現れたのは初めてだった。猛禽の輝く胸の羽毛に見えたのは、あの白鳩の最後の姿だったのだ。その残像は今も眼底に焼き付いている。

真白と真黒の鳩、珍しいペアだった。連れ合いのため自然界では目立つであろう純白の我が身を犠牲にしたのか、と思うのは人間の感傷に過ぎない。わかっていても所在なげに、連れ合いを探すような首を傾げる姿は切なかった。

鳩が集まるようになったのは毎日補充する餌を小鳥が啄み落とすためだ。集まるのは鳩だけではない。まだ小さい赤リス黒リスが忙しげにおこぼれを頂戴するのを二階のベランダから眺めていた。そこへ見慣れぬ動物が。庭で見る中ではかなり大型で半端ない重量感がある。穴兎か、まさかイタチか、と双眼鏡で覗くと度肝を抜くほどのネズミだった。放蕩猫が玩具にする胡桃ほどの野鼠とは比べ物にならない。自然保護、ビオトープなどお題目を唱えるものが、ならばどうしろと、と苦しい自問自答をしながら殺処分に。必死に生きるのはみな同じなのに。

日を置かずに青緑色の鳩の亡骸がカーポートに落ちていた。電線に止まっていて襲われたのか。ここから見える教会の塔にはチョウゲンボウが棲みついている。持ち去って欲しかった。死を喰らい、生に還元して欲しかった。次に繋げて欲しかった。

森羅万象全ては夢幻、色即是空と虚空を見つめればカッコイイ気がする、のは思春期までか。現実はそんなに儚くも美しくもない。色即是空…否、世界は猥雑で雑然と光と色と生命に満ちている。光が当たれば色が生じ、存在の証に影が付き添う。

昨晩夜の帷が降りてからハリネズミが二匹、玄関先で猫のお裾分けを食べ始めた。

彼らにも、一本の芝草にも、カリカリカサコソ立てる音にさえも影が寄り添うように感じられる静かな夜だった。

命ある限りみな生きて、その一つ一つの存在に影が寄り添い、死が生を産む。

色即是空と悟り切るより、子規の優しさ、慈愛が救い。

一寸の草に影ありけふの月