KIRACO(きらこ)

私がうまれたのは、両親が結婚して五年目だったそうだ。祖母は早く孫が出来ることを待ち望んでいたので、孫が出来ると聞けば大喜びだった。確かには母が東京の家から市原の家に帰るのは、お盆の時と、お正月だけだった。祖母もその頃は、東京で住むことが多くなり、一度結婚して帰って来た母の一番上の姉も同居していた。

使用人も沢山いたので母は毛筆の先生にきてもらい夫婦で習っていたそうだ。父は真面目で、関連の会社に出勤していた。私が生まれた事は、一家中を喜ばせたようだ。

「女の子だって、男の子だっていい、大事な内孫だ。大切に育ててくださいよ」と祖母が全員に命令した。結婚して、別れて戻っていた小母が、当時有名だった命名の占い師に行って、女の子だから、どんな姓の男性と結婚しても一生この子は幸せな人生を暮らせる名前をつけてきたと話した。その名前が「庸子」、出来れば三歳までは、庸之助と呼び男の子の格好をさせれば、一層の幸せがやってくると話して下さったそうだ。そこでその時から私は庸之助、庸乃助と呼ばれていたらしい。祖母、小母たち全員の人から甘やかされて育ったらあまり泣かず、笑っているほうが多い子供だったらしい。

やがて弟が出来、跡取りが出来た。一家中大喜びで、地元の市原で疉八帖もある大きな凧を揚げて祝ったそうだ。その凧は風に乗って、何十キロ先の山に落ちたとか?今では信じられないような話ばかりですが。

小母さんにいい再婚話がおきて、小母は再婚した。小母は私を本当に可愛がっていたので「私の所へよこしなさい。主人もそうしろと言っているから」と祖母へ何度か電話してきたらしい。しばらく小父と小母とくらすようになった。

市原の山奥より、東京のほうが私にはいいという思いがその理由だと思ったらしいがそればかりではないと子供の私も察しがついた。再婚のお相手には、小母と同い年の娘を頭に三人の娘と二人の男の子がいた。皆、小父の近くに住んでおり、孫たちは私とあまり年齢がかわらない、小父さんはいい人で、可愛がってくれた。小父さんはお能が大好きで謡(うたい)をいつも歌っていた。

小母は、日本舞踊の名手で、最初の結婚前に名取り披露を歌舞伎座でやった人だ。年齢は違うが好みは合っていたのだろう?小父の会社のほうは息子と支配人にまかせて自分の趣味ばかりの楽しい日々を送っていたらしい。だから江ノ島、歌舞伎座や浅草など毎日のようにつれていってくれた。幼い子供に歌舞伎や寄席は余り面白くなかったが、お汁粉屋さんなんかにつれて行ってもらえるのは楽しかった。家にいるときは、始終、小父さんが謡をやっていたので、いつの間にか私も憶えてしまった。それを聞いた小父さんがこの子は筋が良いと褒めてくれて、正式に小父さんがおしえてくれることになった。近くにいるのだから、毎日のように家にくる小父さんの娘さんやお孫さんからは存分羨ましがられることも多くあり、そのことで小さないじわるはいっぱいされた。

子供心に小母が何故かかわいそうで、ずっとこの家にいるべきだなんて思っていた。そんななか、市原では、母が妹ともう一人の弟を産んでいた。私は四人きょうだいになったのだ。私は弟や妹に会いたいと思うのだが、何故かこの家を離れたくなかった。

そうするうちに小学校に入る時となった。小父と小母がたくさんある私学からわりと近いからと成城学園を選び出し、受験準備をすすめていた。そこへ、父から電話がはいり学校は、市原へ帰って地元の学校へ入学するようになったと伝えてきた。私はがっかりしたが小母さんは「そうだね、学校は親の家から通ったほうがいいかもしれないねえ」と言った。「私、東京の学校に行きたい」と私が駄々をこねると、「ランドセルとノートやいろんな学用品、送ってやるからね。それに夏休みがすぐ来るからそしたらここへおいで、待っているからね」

そんな日から三日後、私は小母と一緒に市原の家に帰った。弟妹と会って初めは、なんとなく両方でもじもじしていたが、そのうちすぐに打ち解けた。

祖母の喜びようは、なんといっていいかわからないほど喜んでくれた。その夜から私は祖母の隣で寝ることになった。祖母は布団に入るとすぐ、「庸子。東京の家のみんな優しいかい?」と聞いた「ウン、小父さんは優しいよ、だけど・・」

「だけど何だい・・・何でも言ってごらん」

「まーねー。あそこいっぱい小父さんの子供や孫とかいう人がいるのよ。その人たち小母さんばかり働かせるの。」

「やっぱり、そうなんだね。お手伝いさんは?」

「一人いるけど部屋の空きがないらしく、通いなの」

「そうなのかい。たね子(小母)は茶碗一つ洗ったこともないのにね」

「ウン、だからすこしでも小母さんのお手伝いしているんだけど」

「そうかい、そうかい、もういいからもうおやすみ」祖母はそう言ってくれたが、私はなんだか眠れなかった。やがて、村の小学校へ通うようになった。

学校へは四つの岩のトンネルをくぐって一里。市原の小学校の生徒は皆元気で明るかった。私はすぐに皆と仲良しになり、山や川を駆け巡りガキ大将になっていた。前に住んでいた東京の家は戦争で焼けて、跡地にたくさんのバラックが建ってしまい仕方なく、裁判事になっていた。父は待ちきれず中野に家を建て、四年生の三学期がくると弟、妹と一緒に東京の学校へ転校した。両親は市原に残っていた。東京に来るとき大事なイヤリングを全て大切に持ってきた。そして、弟は柔道、妹は油絵を私はクラシックバレーを習い始めた。