KIRACO(きらこ)

今年の夏は、いつまでも暑く秋もやってこない。なかなか寝付けない夜など、つい祖母や母のことなど、思い出してしまう。

祖母は私が中学生の時に亡くなったが、幼い時から本当に可愛がってくれた。夫を五十三歳で亡くしてしまったが、広い田畑や山を守り、木材会社と、小さな銀行や証券会社も番頭さんに助けられながら経営を続けて四人の娘に二人の息子を育てた。私の父は三男だったが、長男と次男が亡くなってしまったので、家を継いでゆく立場となった。十歳で当主となった父は、「お前は、世の中や人のためになる事だけ考えて行けばいいんだよ」と、言われて育ったという。

市原の他に、東京にも家を持っていたので祖母や父は東京暮らしをする事も多かったらしい。

父のすぐ上のお姉さんは、とても美しかったらしい。「私達夫婦にどうして、あんな綺麗な娘が生まれたのか、不思議でしたよ」と、祖母がよく言っていたからホントに美人だったらしい。女学校の卒業を待つように、すぐ遠縁に当たる銚子の親戚に嫁入りしたそうだ。

最初に女の子を出産、その二年後、又身ごもった。しかし、腎臓を悪くしてしまい、主治医は「今回はお子さんを諦めてください」と言われてしまったそうだ。しかし、お姑さんが「占いでみてもらったら、男の子だと言うんだよ、それなら我が家の大切な後継ぎだから、どんな治療でもして、どうしても生んでもらいたい」と主張した。しかし、その出産で、母子ともに死んでしまった。そして、赤ちゃんは男の子でなく、女の子だった。

祖母は悲しみにくれて過ごしていたが、ある日、銚子に住んでいる知り合いの人が訪ねてきて、「最近亡くなられたお宅のお嬢さんにそっくりな娘さんを銚子駅で見かけたんだけど・・・本当にそっくりでびっくりしてしまいましたよ」という話をした。祖母は、「その人に是非とも会いたい。何とかして探していただけないでしょうか?お願いします」とすがるように言った。知り合いの人は、「たまたま、銚子に来た人かもしれませんから、難しい話ですが、駅や売店にも知人がおりますから、やってみましょう。お嬢さんのお写真を何枚かお預かりできませんか?」その人の言葉に、祖母は数枚の写真を渡して、「どうか、よろしくお願いいたします。」と両手をついて、深々と頭を下げた。

二ヵ月たった頃、電話が入った、「見つかりましたよ。その人のお姉さんが銚子に嫁いでいて、お姉さんを訪ねて時々銚子に来ているらしいです。本人は八街においでのようですが」と話してくれた。

「ありがとうございます。是非お会いしたい。是非、是非」と祖母はすがるように言った。「わかりました。お姉さんの嫁ぎ先も偶然知っている人ですので、いろいろ調べてみます。お会いできるよう何とかやってみます」との力強い言葉に祖母は「ありがとうございます。ありがとうございます。」と何度も頭を下げた。

亡くなった祖母の娘さんにそっくりだと言われたのは、実は私の母だったのだ。母は当時女学校を卒業して、東京にいたが、本当の家は、八街市にあった。母の父親は八街で大きな野菜集荷業と肥料業を経営、豊かな暮らしをしていた。母は四人姉妹の三女だった。大学進学を強く願ったが、長姉が大学在学中に、その頃日本で流行した共産主義に走り、いわゆる赤狩りにほんの少しだが、調査を受けたりしたので、母の両親は、女は絶対に大学には行かせないと決めていたそうだ。その代わりに東京へ出て、料理学校や洋裁学校、お茶やお花を学ぶのはすべて許すと申し渡したと言う。そこで母はそれらを学ぶためと言って東京へ出たが、母は大学で学ぶことの次にやりたかった新劇の女優になってしまった。その合間に料理学校や洋裁学校へも通っていたらしい。そんな生活が一年続いた時、すぐ上の姉が銚子に嫁いだ。母は休みが取れると八街へ帰っていましたが、折りがあれば、銚子の姉の新居を訪ねていた。その母の姿が祖母の知り合いの方の目に留まったらしい。一方、祖母の許へ母の写真、母の両親の写真や職業から、街での噂話まで、いろんな事が集められた。祖母は、母の写真を何度も見ているうちに、この人を自分の長男(私の父)の嫁にもらいたいと思い始めた。三人いる娘たちも呼びつけ、写真を見せると全員がそっくりだと言った。家を継いでいる長男は、当時、二十九歳。他の会社で一年ばかり修業していたが、家業についていた。縁談は、いくつか持ち込まれていたが、本人と祖母が揃ってOKを出せる人には出会っていなかった。本人も姉たちも、このお見合いに大賛成。祖母は、偶然母の実家と入じっこん魂な人を見つけ、お見合いできるようにしてほしいと頼み込んだ。祖母の願いは、なかなか、私の母には届かなかったらしい。私の母がまだお見合いなんか早いと話に乗らなかった。だが、一年も続いたお仲人さんの熱意に負けて、母はお見合いを受けた。皆が結婚に大賛成だった。母は結婚するしかないと思うようになっていった。

結婚相手の私の父が、人の良さそうな人に見えたこともあり、それと私の家は、当時から市原と東京にある。「市原には盆と正月ぐらいしか行かずに済みます。ほとんど東京暮らしでしょう」と、仲人さんにいわれたので、それも大きな魅力の一つだったのでしょう。多分好きな芝居と映画をたくさん観られると思ったかも知れない。女優になる夢を捨て主婦になる道を選んだ母。だが、母は死ぬまで一言も新劇女優をしていたなんて誰にも言っていない。

私は母の死後、母と特別仲良しだった母のいとこから聞いたのであった。