3月16日、お江戸両国亭にて久しぶりの自主興行「鶴遊の長講一席の会」を開いた。講談教室の生徒に発表の場を作りたいとの思いから開催を決めた。私の演題は自作の「北斎と馬琴」で、一時間たっぷり伺った。一昨年、師匠の宝井琴梅がすみだ北斎美術館で開いた「北斎百話」という北斎の逸話ばかりを集めた講談会で初演をしているが、大河ドラマの主人公、蔦屋重三郎のもとで出会った葛飾北斎と曲亭馬琴が、大喧嘩を繰り返しながらも名作を生み出し続けたという筋書き。3月20日には、新宿永谷ホールの講談協会定席で初めて主任を務め、こちらも長講で創作講談「尾崎行雄伝」を読んだ。両日ともに大入りで安堵した。
講談会を開く際、最も難しいのは集客だろう。客の集め方は講談師でも様々。亡き師匠の一鶴はマスコミへの売り込みがお手の物。新聞各紙、時にはテレビにも取り上げられ集客に繋がった。アポを取ってという事はめったに無かったと思うが、あのヒゲをふるわせながら、えらい勢いで喋りまくる一鶴センセイがいきなり編集部に現れるのだから、忙しい記者さんもついつい話を聞かされ、記事にしない訳にはいかなくなる。
私もマスコミに取り上げていただく事も無くはないが、もとより亡き師匠には、芸歴も知名度も遠く及ばないのだから、常に掲載いただけるとも限らない。集客では、各地のお客様との普段からの地道なお付き合いが物を言う。一鶴は喫茶店に毎日通っていたが、お酒を口にしないため、終演後の打ち上げの類いに参加することは稀で、酒場での客との交流は少なかったが、私は、元来嫌いな方ではない。浅草近辺の喫茶店はもとより、各地の飲み屋に顔を出して縁を広げたり、小さな勉強会を開いては、終演後にお客との杯を重ねた。ごちそうになったり、仕事を通して出会った方などには、すぐに礼状を。前座時代から乗車をしたはとバスの講談師と行くツアーでは全国からの乗客があり、多くの方と連絡先の交換も出来た。そうした甲斐あって、浅草・東洋館での二ッ目昇進披露、国立演芸場等での独演会から真打披露に至るまで、どこで会を開いても満員に。これも、わざわざ足を運んで下さる皆さんのおかげだが、集客という面では、曲がり形にも真打として自信を持てるようになった。
しかしここ数年、私のやり方はもはや時代遅れではないかと心が折れそうになることもしばしば。講談会へのご案内は、まずチラシや葉書をこしらえるところから始まるが、これらはデザイナーに料金を払い作る事もあるが、過去のチラシ等を切り貼りしてコピーや、自ら印刷機を回し製作する事も。出来上がった案内状に、個別のメッセージや宛先を手書きして郵送。会の規模にもよるが、毎回、数百枚~千枚ほどにもなるから、毎度の郵便料金の値上げは相当にきつい。経費をたくさん使っての集客ゆえ、独演会ならばまだしも、何人かで主催をする会ともなると、収益は割ることになり、ワリに合わない。ならばSNSを使えば?とおっしゃるだろうが、小生恥ずかしながら、いつの間にやらデジタルの波に乗り遅れ、選挙で言えば、いまだにドブ板選挙で戦っているというところ。投函後しばらくすると、チケット予約の電話やメールといった反応があるが、一番がっかりするのは「行けないよ」などと、わざわざ 〝欠席〟の連絡が来る時。パーティ等ではないのだから、「欠席の際はそのままお捨て置き下さいませ。」と、最近は案内に一言添えている。
一鶴は講談師では初めてのホームページを開設。前出の新宿永谷の上階に借りていた事務所には、当時の最新鋭機器が揃っていた事も思い出す。今ならばきっとSNSも駆使していたに違いない。3月の会では、初めてネット印刷に挑戦。自ら簡単なデザインを施した案内ハガキを作成、送付した。すると、ラジオ深夜便の「後藤新平伝」の再放送を「聞いたよ」という返信が多数。また会の当日には、ご無沙汰していたご夫婦や、遠く青森から駆けつけてくれた方も。新規の若いお客様も居れば、楽屋には差し入れにご祝儀もいっぱい。苦労も多いが、会を開くのはやっぱり楽しいものだと再認識した。
二十年前、はとバスで知り合った新潟県新発田市の安田光一さんから「あんこう鍋食おう、ついでに一席やってよ」とお電話が。二年ぶりに会場の「御料理ふぢしん」へ。終演後は越後の酒、季節の味に舌鼓。皆さんと和気あいあいとスナックまで。翌日は、バスで旧西山町へ。ここからドブ板選挙で上り詰めたのが田中角栄先生で、生家と記念館を見学。5月29日に日本浪曲協会・講談協会の初の合同公演を横浜にぎわい座で開くが、「講談・浪曲で綴る昭和百年」は親友の浪曲師、東家一太郎君と私の企画。ここで「田中角栄伝」を初披露する。首相就任の頃、亡き師匠も角栄伝を演じていたが、私なりの一席に仕上げたい。
田辺鶴遊(たなべかくゆう)
名古屋生まれ静岡育ちの講談家。芸能社経営の父のもと、2歳から芸能活動。8歳で田辺一鶴に師事し上野・本牧亭で「田辺チビ鶴」の名で初高座。東海大大学院政治学研究科中退後、講談協会にて前座修業。二ッ目昇進披露は浅草・東洋館にて。平成21年師匠没後、一鶴の弟弟子にあたる宝井琴梅門下へ。平成27年、真打昇進し田辺鶴遊を襲名。江川太郎左衛門、斎藤実、中勘助、遠藤実など幕末・明治~昭和期までの創作人物伝が好評。朝日新聞千葉版の読者投稿笑文芸欄「千葉笑い」の五代目選者。