江戸川区内の銭湯を会場に、年六回開催している講談会「東京ニューヨーク寄席」が、9月26日に開催百回の節目を迎える。江戸川区と浴場組合江戸川支部の共催で入場は無料。講談を聞いた後は入浴できるが、お風呂も無料の上、タオルやお茶まで貰える。常に申込はキャンセル待ちが出るほど人気の催しだ。講談は、一回でも多くお客の前で場数を踏むことが鍛錬になる。亡き師匠の一鶴は『きらこ』57号に寄せたエッセイ「喜寿を迎えて」の中で講談五百年の歴史に触れ、安政四年に江戸には242の講釈場があり、その中から名人上手が輩出。幕末から明治にかけて講談は隆盛を極めていたとし、「歌舞伎や落語は元気がいい。悔しいではないか。」「定席といっても月に5~6日に過ぎない」と、講談界の現状を憂いていた。講談復活へのキーワードは、「前座・二ッ目が講談を読む場所を増やすこと」だと目をつけたのが、脱衣場という広い空間が魅力の町の銭湯だった。
前座時代、新小岩に住んでいた一鶴が通っていた「一心湯」の酒井勝社長に相談すると、利用者増加を願う浴場組合と思いが一致。江戸川区役所福祉推進課孝行係の協力を得て、平成17 年12月12日、平井の銭湯で第一回の東京ニューヨーク寄席が開かれることに。入浴とニューヨークを掛けたネーミングは、ニューヨークのカーネギーホールでの公演を夢見ていた師匠ならでは。「田辺一鶴プロデュース」と染め抜いた幟に、鮮やかな黄緑の後ろ幕は、師匠が両国の片岡旗店へ発注、自費で製作するなど気合い十分。私も会場作りを手伝った事をよく覚えているが、朝日・読売・東京の各新聞が掲載、鳴り物入りでスタートした。この月だけで一心湯も含め区内四か所の銭湯で開催。さらに翌月からは墨田区の銭湯へも拡がり、「十年がかりで東京全湯制覇を目指すつもり」と意気込んでいた。
平成21年12月22日に師匠が亡くなった後、中断していた寄席が再開するにあたり、弟子の中で唯一区内に住む私に声がかかった。再開当初は来場者も数名という寂しさ。師匠の名前で成り立っていた会だということを実感、果たして続けていけるだろうかと心配したが、回を重ねるうちに区役所や、組合の皆さんの協力体制も厚くなり来場者数も増加。平成26年、江戸川区浴場組合が「地域づくり総務大臣表彰」に輝くと、東京ニューヨーク寄席開催が受賞理由の一つに。熟年者の外出のきっかけ作りの場になったのだという。
会場となる各銭湯には、営業時間前に寄席の支度や片付けなどご面倒をおかけするわけで、開催を了承して下さった江戸川区内全てのお風呂屋さんに感謝を申し上げたい。小岩「武蔵湯」の金子さんなどは、他の銭湯で開催する時も毎回、お手伝いに駆けつけて下さり、有り難い。江戸川一丁目「第二寿湯」店主で浴場組合長の鴫原さんは、ゆるキャラ「お湯の富士」を発案したアイデアマン。寄席開催を後押しして下さった事はもとより、私が真打昇進の際には、組合から招木(まねき)という縁起物を贈って頂いたり、区内のホールで「えどがわ講談の会」を立ち上げた時も各銭湯にチラシを配置して頂くなどいつもお世話になっている。
お世話になっているといえば、博品館劇場や静岡の講談会など私の会にゲスト出演して下さっている毒蝮三太夫さん。マムシさんのラジオ収録と東京ニューヨーク寄席の同時開催は思い出深い。NHK首都圏ニュース、江戸川のガイドブック等様々な媒体に取り上げられるようにもなった。
出演料は、もともと亡き師匠と同額を頂いていたが、「あまりに安すぎてかわいそうだから」と金額アップを進言して下さったのは、古川親水公園沿いにあり、可愛い猫たちを飼う「宝来湯」の中里さん。出演者は現在、私の他に、前座・二ッ目の後輩にも声を掛け、1〜2名が出演している。
終演後は私もお客さんと共に入浴。各銭湯の個性の違いも楽しいが、気持ちの良さは共通。嬉しいのは、「うちの風呂へようこそ」などと、湯船で話しかけてくれるおじさんも居たりすること。寄席の常連客も様々。SNSで発信してくれるお兄さんに、お菓子に飲み物などをいつも差し入れて下さるご婦人も。他の講談会へ足を運ぶようになった方もいる。コロナの流行で中止を余儀なくされた時期も乗り越え、師弟二代でちょうど二十年。関わってくれた皆さんの顔が浮かんでくる。演者としては、いつもあまり気負わずに口演してきた事が長続きの理由と考えているが、東京ニューヨーク寄席が今日あるのは本当に多くの皆さんのおかげ。銭湯での落語やイベントの開催はさほど珍しい事ではないが、「講談」にこだわって百回も続いた銭湯イベントは他に例が無く貴重だ。私も含めて、前座・二ッ目時代に出演した講談師がもう何人も真打になっているが、百回記念公演は彼らを呼んで初めての真打大会。寄席のきっかけを作ってくれた酒井さんの一心湯にて。おりしも今年は、師匠一鶴の十七回忌でもある。
田辺鶴遊(たなべかくゆう)
江戸川区平井在住の講談家。父の影響で2歳から芸能活動。8歳でヒゲの講談師・田辺一鶴に師事、翌年田辺チビ鶴の名前で初高座。東海大大学院政治学研究科中退後、講談協会で前座修業。師匠没後は一鶴の弟弟子にあたる宝井琴梅の門下へ。創刊以来一鶴が書いていた「きらこ」の連載を引き継ぐ。平成27年、真打昇進し田辺鶴遊を襲名。朝日新聞千葉版の笑文芸投稿欄「千葉笑い」の選者。日テレニュースエブリー特集のナレーションも長年担当。今年は第54回NHK講談大会での口演が好評。
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