梅雨開けの宣言がでて、ホッと一息したものの、厳しい暑さがやってきた。七月生まれのせいか私は夏が好きだし、暑さにも強かった。でも、今はだめ。暑さに堪えられない。何をするにも面倒くさい。食べるのも、お化粧するもの面倒だ。
つい二、三日前のことだ。会合があったので暑いさなかの午後二時、新品のワンピースと新しいバッグを手にして会場のホテルへ向かった。
仲良しの何人かと会って、お酒を飲んだり、おしゃべりしていた時一人が「ヨーコちゃん、口紅が取れているよ」と言ってくれた。「ありがとう」と言って、私は化粧室へ入った。口紅を付けようと鏡を見て私はギョッとしてしまった。私はまったくのスッピンだったのだ。ああ、お化粧するのを忘れて出て来ちゃったんだ。私は若い頃から目を強調する化粧が好きで、外出する時は必ずアイライナーで上まぶたを塗った。それからほほ紅をかなり強く付けた。ほほ紅を付けないと本当に青白いから、これだけは外出時忘れたことはなかったのに・・・・。急いでハンドバッグから化粧ポーチを出そうとしたが、いくらかき回してもポーチが見つからない。そうだ、今日はじめて使う新しいハンドバックを持って来たんだもの、ポーチを入れ忘れたんだと、わかった。私は鏡に映る自分をとっくり眺めてみる。やっぱり青白いぼんやりした私が映っている。私は誰も化粧室に入ってこないのを幸いに思いきって、顔を洗った。ハンカチでよく拭いてから、いつも持っているマスクをした。そのままパーティー会場へ戻った。でも、心の中では、化粧を忘れた自分がかなりショックだった。最近ひとの名前なんかもすぐ出てこない事が多い。やはり年齢のせいだろう。
ボケの始まりだったらどうしよう。そんな思いが胸をついてくる。子供も孫もいない私。ボケたら誰が面倒見てくれるのだろう。誰にも迷惑を掛けたくないし・・・。
その日は家に帰ってからも、しばらくそんなことが心の中に浮かんだり消えたりして、ベッドに入っても、なかなか眠りにつけなかった。翌朝になるとそんな心配は消えていた。
仕方ない。ボケたら、ボケたで仕方がないが、ボケないように、注意して毎日を過ごそう、そう決めた。本ももっと読もう、映画やお芝居も観たいものは全部観よう。そして人のため、世の中のために少しでもなるように生きよう。健康にも気をつけて。一番好きな、書くという作業もサボらずに・・・。そして、私には、たくさんの友達がいる。女の人、男の人、年上の人、年下の人、いろんな仲良しが、いっぱいいるんだもの。そんな方々と楽しいことをたくさんして生きていこう。なんて考えていたら気が楽になり、何だか楽しくなってきた。
私の母は、九十九才で亡くなった。四人姉妹の三番目として生まれた母は勉強も運動も強かったらしい。父もスポーツマンで陸上競技ではかなり頑張っていたようだ。私は子供の頃から運動は苦手であったが、母は「私達夫婦の子供が運動神経が悪いはずはない」と言って駆けっこや鉄棒をうるさくやらせた。
そして、もう一つ、言葉使いには、かなり厳しかった。アクセント、鼻濁音等、子供には難しいと感じられることへの教えは大人になってからは、かなり役にたったのだけれど。
実家が市原、生まれは東京の私は6才までは東京の小母の家で過ごしていた。小母は私を実子のように可愛がってくれた。小さいころから、歌舞伎、お能の世界に触れさせてくれたり、毎日が楽しくてしょうがなかった。父の意向で小学校は地元の市原に通うこととなり家から歩いて1時間の学校生活が始まった。春になるとタンポポやすみれがたくさん咲き、クローバーの花いっぱいの原っぱでの四葉のクローバーを探したり、秋の紅葉の中での落ち葉拾いも楽しかった。市原の平三小学校は今は、もうないけれど私には思い出がいっぱいある。
父が戦争で焼けた東京の家を建て直したのをきっかけに小学校4年生の三学期から弟と妹とともに両親から離れて東京の家に引っ越した。
当時父が村長をしていたため両親は市原暮らしだった。多分父と母は、私の中学校受験を考えての準備だったのだろう。
弟は小学校3年から柔道をやるため講道館に通い、妹は油絵を習い、私はクラシックバレエとピアノに日本舞踊に通った。両親は一緒にいられない分、細かいところまで気を配ってくれたのだと今では思う。これから英語が必要と、週1回英会話の先生も来てくれた。私と弟はサボってばかりいたけれど、妹は熱心に勉強し中学校になったころには立派に英語が話せるようなった。父親は明治大学卒だったので、弟二人は明治中、明治高そして明治大学に通った。その点では親孝行と言えるかな?私は母がすすめてくれた東洋英和中学校を受験したが見事落ちた。父は合格発表の日、東京の家に来てくれたが落ちたと耳にした瞬間抱えていたお祝いの大きな鯛を玄関で落っことしてしまった。私は仕方なく滑り止めに受けていたミッションスクールへ入学した。だが私にとってその当時は、学校は好きになれずサボってばかりいた。何とか中学校は出たが、学校に通わなくてもいいところはないかと真剣に考えていて、出会ったのが俳優座の養成所だった。中卒から受験ができると知り応募した。
それを知った母が「自分でどうしても行きたいと思っているのなら、お父さんには私が説得してあげるから」と言ってくれた。それが私に不思議でならなかった。結局なにをやるにせよ高校を終えてからと話がまとまり、母が若い時に入学を切望していたお茶の水の文化学院に入学し熱心に通った。それが私の母への唯一の親孝行だったのかもしれない。
母が天国に行った後、私は母の従妹から聞いた。母は若い頃、新劇の若い女優であったそうだ。母は一言もそんな話をしたことがなかったが・・・。私は、いろんなナゾが解けたと思った。
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