9月26日、新小岩の一心湯で第100回東京ニューヨーク寄席を開催した。前回のきらこでも書いたが、亡き師匠の一鶴が平成17年12月12日から開始した江戸川区内の銭湯を巡る講談会で、師匠の没後は私が後を継ぎ、師弟二代で二十年かけて百回の節目を迎えるに至った。お風呂も講談も無料というこの催しは、コロナ以降、人数制限をするようになり、江戸川区役所孝行係が申し込み窓口を担当。特に今回は参加希望が殺到し、すぐに定員となったが、佐々木係長の計らいで立ち見でもよろしければ・・と受け付けて、いつもより多くのお客様に講談を聞いてもらう事が叶った。出演者も特別に、私を含め六人の講談師が次々に登場。複数の取材、カメラも入ったから久々に賑やかな会となった。
写真家の森松夫先生は、高座の姿はもとより、楽屋の何気ない講談師の素顔など、数十年に渡り講談界を撮り続けていらっしゃる。真打昇進の際や独演会、正月初席等々、私も常日頃からカメラにおさめてもらっているが、開始当初の東京ニューヨーク寄席の写真を引き伸ばしてお持ち下さった。亡き師匠の写る一枚と、前座として一席を読む私。まだ駿之介という名前だった。写真に残していただけるというのは、つくづく有り難いと思う。
「えどがわ区民ニュース」のテレビクルーは、冒頭の私の、ご挨拶と「東京オリンピック」(一鶴作)から、私のトリの一席「蜀山人」までの演目を余すところなく撮影し、一心湯・酒井勝社長と私のインタビューも収録。これは11月20日からジェイコム等で放送されるという。
昨春発表した創作講談「尾崎行雄~東京水源林の由来」は、舞台となった山梨県丹波山村の役場で初演したが、その際、東京から送迎して下さったのが大平和夫さん。以来、頻繁にお世話になっているが、本業は映像製作のお仕事。一心湯には、ご子息の健二さんが忙しい中駆けつけてくれて、ボランティアで動画を撮影して下さった。大平さんはどういうわけか、浅草にある東京新聞したまち支局にしょっちゅう出入りをしていて、中山高志支局長は太平さんが顔をつないでくれた。昨年末、支局長には尾崎行雄伝の記事を書いて頂いたが、今回は、私が事前に支局に伺い話をさせて頂いた上、当日も中山さんがカメラマンを連れ、お客にも丁寧に取材。9月28日の朝刊に「ニューヨークの笑いで心身ぽかぽか、江戸川の銭湯・名物の講談」と掲載された。関東全域と静岡県は沼津の読者まで読める版、社会面の大きな記事で、カラー写真は二枚使われた。長年通ってくれるお客さん達の顔がバッチリ写っていて、良い記念になる。驚いたのは、一面の東京新聞の題字の横の「きょうの紙面」の欄にも「銭湯寄席・師匠と歩いた二十年」という見出しが載ったこと。スマホのニュースには「聴衆もお湯も沸き立つ名人芸」と掲載、このタイトルには恐縮した。
10月3日には読売新聞朝刊に出た。こちらも大きくカラーで、都内全域で読む事が可能な地域面に「銭湯の寄席、客沸かす」と掲載。やはり、錦糸町にある江東支局に前もってお邪魔をし、話を聞いて頂いた。一鶴もよく顔を出していた支局で、私もしばらくぶり。記者は、9月に札幌の北海道支局から転任したばかりという五十川由夏さん。そもそも私がなぜ一鶴の弟子になったのかといえば、師匠が名古屋で持っていた冠番組のディレクターが私の父で、そこから師匠と父の友達づきあいが始まったことによるが、五十川さんはその辺りから掘り下げて聞いて下さり、記事には亡き師匠の懐かしい写真とエピソードを紹介。平井在住の常連客で、東京ニューヨーク寄席をきっかけに、熱心に私の出番を追っかけてくれるようになった飯野富美子さんの感想まで載っていた。取材中の、「一鶴師匠もきっと、よく続いたなと言っているでしょうね」という五十川さんの一言が何より嬉しかった。
前座時代に新小岩に住んでいた一鶴は一心湯に通っていた。後年、寄席開催を酒井さんに相談したことが東京ニューヨーク寄席のはじまり。風呂場で講談の稽古をしていて、他の客を困惑させていたという逸話を酒井社長が披露してくれた。「全国浴場新聞」はお風呂屋さんが読む月一回の専門紙。市川和美さんが寄席の当日は勿論、後日じっくり取材をして下さるとの事、全国の銭湯の総本山、東神田の東浴ビルを訪ねた。前座の頃、師匠が運転する自転車の後ろに乗っかりお風呂に連れて行ってもらったこと、湯船の中で師匠が、師匠自身の稽古を始めるから、いつまでも出られずにのぼせてしまったことなど、私と銭湯との関わりを中心に話をさせて頂いた。帰り際、市川さんが静岡県伊東の出身で東海大の先輩と聞きびっくりした。
私は以前から、もしも生まれ変われるものならば、記者になり、日本中を飛び回りたいという夢がある。来年は午年で年男の私。縁を大事に、馬車馬の如くに全国を駆け回りたいものだ。
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