KIRACO(きらこ)

飲食業から専業主婦、そして物書きに

2026年7月16日

吉成庸子さんのコラムを読めるのはKIRACOだけ

 今年は、梅雨が来ないで、夏がくればいいのにと思っている。暑さには弱いけど、七月生まれのせいか、わたしは夏が一番好きだ。

 花もようのきれいなワンピースや可愛いサンダルなど、年齢も考えずつい買ってしまう。

 八丁堀の店を始めてから、約二十年近い月日を、私は七店の店を銀座、新宿、軽井沢等で始め、朝から晩まで働き続ける毎日を送っていた。本当に五時間やっとの眠りの時だけが楽な時間だった。

 学生時代の遊び好きな私とは、大変な変わりようだった。私の身体の中に、商売好きな血が流れているのだろう。銀行や証券会社と学校を創立した父方祖父と、商売の神様と呼ばれたという母方の祖父の血を私が全部受けついだのだろうと、周りの方々がよく話していたと聞く。

 自分では少しもそんな事思わなかったけど、どんなに忙しくても眠る時間がなくても、少しもつらくなかった。ただ、急に父が亡くなった時に、「私はこのままでいいのだろうか?」と、四十歳が近くに来ていることが不安となり、私の胸の中を駆けまわっているのを感じだしていた。

 そんな時だった。突然、奥様をなくされ七年目を迎えた、二人のお嬢さんがいらっしゃるある男性の方からプロポーズされた。私の父の知人であり、私の店をよくご利用頂いていたので、よく存じ上げていた。

 だが、結婚願望はまったくない私だし、まして、その方をそんな感じで見たことも一度もない。年齢だって父に近い人だもの。結婚なんて……と私はただビックリしていた。

 だが、母は違った。

「お願いだから結婚して頂戴。あの方だったら、お父様もきっとお喜びになったでしょう。銀行の頭取さんだし、よく知っている方だもの。お願いだから、結婚して頂戴。」

 何度も何度も私に言った。

 その結果、結婚相手となった京葉銀行の頭取、吉成さんと、三日後の午後三時に香取神宮で二人だけの結婚式を挙げることとなってしまった。

 何が何だかわからないまま話が進んでいき、私は一か月で全部の店をたたんで、彼の住む四街道へ行くこととなってしまった。商売をやめるなんて、つらかった。でもよく考えればその方がいいのだと自分に言い聞かせ、従業員を集めて話した。

 幸いだったのは、一人も反対者がいなかったことだ。私は全店を売りに出した。売り急いだため値段は安くたたかれたが、仕方がない。そのお金で従業員への退職金めいたお金を支払えた。

 ただ、さすがに店を閉める最後の日、本当につらかった。泣かない私が、泣きに泣いた。そして最後のお客様が帰られた後、四街道へ向かった。

 そして私の専業主婦としての生活が始まっていった。

 家事は何一つしなかった私は、当然お料理も掃除も何ひとつできない。洗濯もしたことがないので、夫から洗濯機の使い方を教えてもらった。

 夫となった吉成は、初めはビックリしたらしいが、諦めて、自分が仕込んでいくしかないと考えたらしく教育しだした。何しろ七年間みっちり一人で家庭内の仕事を続けて来た人だ。おまけに器用なので、家事も上手だった。二人の娘はすでに結婚していた。

 毎日家にいることで、私がうれしかったことの一つは、本をゆっくり読めるということだった。私は子供の頃から本を読むのが大好きだった。働きだしてからは全く本を読む時間がなかった。ただし、本はかなり買ってあったので、その本は全部四街道へ持ってきていた。

 それをどんどん読みまくり過ごしていた。そんな私に、忙しく働いている夫は庭の草むしりを命じた。

 そんな初体験をしながら、

「あ~あ、結婚なんてしなきゃよかったなあ……」

と、青空を眺めながらため息をつく日もあった。

 半面、家にいるのにも慣れて、「これでよかったのかなア」なんて思うようになっていった。ただ時折、夜、食事の時に夫にビールをついでやりながら、

「なんで、私、毎晩こんな爺さんに無料でお酌しているのかしら?」

なんて思ったりしたが……仕方ない、妻になったのだからと考え直したりした。

 夫は優しいところもたくさんあったので、私は主婦生活に慣れていった。

 そんな中、私は店をやっていた時代のことを少しずつ書き始めた。何一つ「書く」ということを習っていなかったが、学校では作文でよく褒められた。だから、書くのは嫌いではなかったらしい。

 私の書いた文章を出版社へ持っていって下さった人がいて、突然出版社の方が家にみえた。

「これを本にしませんか?」

 この方の思いがけないお話にビックリしたものの、うれしかった。そして、私の本一冊目『八丁堀ものがたり』が生まれた。

 この本がかなり売れたので、すぐ二冊目の注文を頂いた。そして二冊目の『西銀座ものがたり』が出た。

 その後、私はエッセイや小説を書くようになり、一応、エッセイストとか作家などという名前がついている。所属は「文芸家協会」所属だ。

 夫も亡くなり、一人になった私は、今でもポツポツ小説等を書いている。一方、「ラウンジ夢子」という小さなお店を千葉銀座の中でやっている。

 「夢子」というのは、私が第三刊まで出している本の題名。第四刊に苦戦しているが、読むのも書くのも大好きな私。店の夢子の方も休まず毎晩出ている。儲けどころか持ち出しの方が多いが、懐かしい方、この年で初めて出会う方々とお会いできて、楽しく、書きたいことが次々に浮かんでくる。

 なんの経験もない私が喫茶店から料亭、最後には銀座のクラブを営み、一生懸命働いた二十年の後、突然すべての店をたたみ専業主婦となり、さらに二十年近い日々を送ったわけだが、文章を書くようになり、その何本かは舞台化されて楽しみも生まれた。

 でも、夫を亡くし子供もいない私は一人になってしまった。そして二人の弟のうち、下の弟も去年急死した。私は初めて淋しさを感じている。

 それにしても、何故か若い頃の自分が懐かしくってならない。がむしゃらに、脇目もふらず働いていた自分がただ懐かしく思い出される。

 店に出ず一人家に閉じこもり文章を書いているのもよいが、ボケるのが怖いのだ。店に出ていけばいろんな方に出会え、様々な話をする。ボケる暇などないだろうと思っている。

 今の私は若き日の自分を書き続けているのが楽しみ。特に『八丁堀ものがたり』は懐かしく、特に思い出深い。

 次号は八丁堀のお店の出来事をきっちりと書くつもりでおります。

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