Vol150 櫻日記(その二)外れ娘と呼ばれた頃
櫻の花が満開になって、「ああきれいだなあ」と、眺めているうちに、いつの間にか初夏の風が頬を打つ。本当に月日のたつのは早いものだと、つくづく感じてしまう。それって私が年を取ったということなのかもしれない。
学校が嫌いでサボってばかりいた私。最後に学んでいた文化学院はお茶の水にあったが、学校には、ちょこっと顔を出すだけで、ほとんどを銀座で過ごしていた。文化学院は母が通いたかった学校。親孝行の意味もあってここに入った私だったが、勉強はホントに嫌いだった。やたらレポートを提出させた気がするが、不思議に書くのはそんなに嫌ではなかった。今思うのだが、現在でも書く事をそんなにイヤだと思わないのは、この期間の教えが身に付いているのかもしれない。
おしゃれが大好きで、あの頃大流行だったロカビリーに夢中なり、マンボやツイストを踊るのが大好き。映画もよく観に行った。私の学生時代は何と言っても、映画が盛んで、洋画もたくさん入ってきたが邦画も盛んで、現代劇、時代劇と三本立て等もあり、大いに楽しめた。
どちらかと言えば、私は洋画ファン。でも一方で、石原裕次郎や小林旭主演の映画も実によく観たものだ。今思い出してみると、フェルトの円形スカートが流行っていたし、マンボズボンと呼ばれる足にピッタリする細いパンツも大流行。その他サックドレスと名付けられた、どこもしめつけないストンとしたワンピースもあった。私は、どのスタイルもとっかえ、ひっかえ、試みている。おしゃれというよりは、あさはかな女の子だったのだ。
香水も大好きで、若い人の間で流行しているのが「タブー」という香水。現在でも私は香水が好きで、シャネルやゲラン等はよく買う。
その度感じるのは、若い頃は香水はプレゼントされる物で、自分で買った事なんかなかったのに…という点だ。たしかに私の若い頃は外国からのおみやげは香水が多かった。
もっとも今じゃ海外旅行なんて、誰もが行く時代だ。とりたてての外国みやげ等もなくなっているのだろう。勉強は投げやりで、おしゃれ大好きで、毎日銀座や新宿で遊び歩いている娘をあまり叱らない父や母を想うと、申し訳なかったなあと反省している昨今だ。父も母もすでにこの世にいない。あやまりようもないけど……
私の家は東京の中野にあった。新宿だって渋谷だって、すぐ近くだし、銀座にだって、三十分もかからない。遊び場には不自由せず、仲間もいっぱいいた。男の子も女の子も。だけど、特定のボーイ・フレンドも恋人も出来なかったのは、私の心が幼かったからかもわからない。友人のキューピット役はよくやったけど、自分じゃ男の子と二人の時間を作ったり、好きだ嫌いだなんて思い悩むなんてバカバカしいと、全く興味がなかった。
髪の毛を長く伸ばして、細いかかとのヒールをはいて、ウェストをギュッとしぼったスカートをはき、ディスコで踊りまくっていた自分の若い頃の姿が信じられない。文句も言わずよくお小遣いをくれていた両親は寛大だったが、さぞかし二人共心の中では心配していただろう。
「家では外れ娘が出来てしまって」と父がどなたかに言っていたのを耳にした事がある。
ずっと後になって結婚した私、今度は亭主から、「こんな外れ女房をもらって俺は日本一不幸な男だ」と嘆かれる。娘時代は外れ娘と言われ、結婚後は外れ女房と言われるなんて、なんだかおかしいなと私は笑ってしまった。
私には、三つ違いの妹が一人いるが、妹は、高校卒業と同時に結婚した。画家志望だったので、美術学校へ入学したばかりの時だ。
相手の人は二十五歳年上の早稲田大学の教授でアメリカ人なのだ。私の家では、子供の時から先生に来て頂いて英会話を学ばせていた。
妹は中学生になると英語は達者になった。
ひきかえ私は全然ダメ。今だって英語は全然出来ないもの。妹にはこの点だけは引け目を感じていたが、私達仲は良かった。父はこの結婚に大反対。相手の方が日本人じゃないというのが反対理由の一つだったが、最大の理由は「物には順序というものがある。上の娘がまだ結婚しないのに、先に妹を結婚させるわけにはいかない—。」という話。
私は真剣になり父母にたのんだ。「私はきちんと学校を卒業してから、結婚するつもり。その時は相手の人はお父さん、お母さんに探してもらいたいと考えてるの。だから妹を先に結婚させて欲しい」と。「その言葉に嘘はないな?」父の言葉に私は「ハイ」と答える。
そして、妹は目出度く結婚式をあげた。私はその席で、「花嫁人形」をうたって、妹を祝った。
千鳥ヶ淵の櫻が満開の夕べだった。
つづく