こんな夢を見た、で始まるのは漱石の珠玉の短編「夢十夜」だ。編集室から入稿依頼が届いた翌日、彼岸の中日、こんな夢を見た。
母と買い物に行こうと家を出た。暫く歩くと自分が情けない姿であることに気がついた。膝丈の浴衣にほつれた紐のような帯。足元はボロボロのスニーカー。これではあんまりだと、着替えに戻ることにした。
母は「じゃ、先に行って待ってるから」と言い、私は角を曲がって行く母の姿が消えるまで見送った。
急いで家に戻り焦って服を探していると知人が訪ねてきた。
話はあちこちに飛び、焦じ れるうちにいつしか後を追うことを忘れていた。
母が亡くなり今秋で三回忌になる。迎えに来ても未熟者の娘にはまだやり残しが山ほどあると母は見て取ったのだろう。
この原稿が掲載される152号が読者のお手元に届く11月初め、ドイツで一日はカトリックの祝日の万ばんせいせつ聖節。全ての聖人の日。二日は万ばんれいせつ霊節、日本のお盆のように亡き人々を偲び、墓参をする日である。
夫の故郷ではこの日だけ、ゼーレン・ブレーツェンがパン屋菓子屋の店頭に並ぶ。ゼーレは魂、精神という意味。ビールのお供として有名になっている、ブレーツェル、堅焼き八の字パン、粒塩のついた堅パンなどと呼ばれるものと形は同じだが、甘い焼き菓子。実はあの八の字の形には深い意味がある。数世紀前から既に修道院で焼かれていたというブレーツェンの語源はラテン語のブラキトゥム、イタリア語のブラッキオ、腕という意味だ。
12世紀の絵画の食卓にも登場する。八の字は胸の前で交差する腕、あるいは組んだ祈りの手。愛するものを葬るとき、高価な金の装飾品の代わりにパン種で形を作り、副葬品、供物としたものが始まりである。此し がん 岸と彼岸を結ぶ繋いだ手、祈りの手、思いを抱き寄せる腕なのだ。それが無限のシンボルに見えるのも偶然ではないだろう。
晩年の母はいつも私の帰る場所を気にかけてくれていた。それは単に「滞在の宿」を意味するのではない。母は大変思慮深い人だった。
今号でこのエッセイの掲載は4回目になる。ちらほら聞こえてくる「船橋市民だったあなたが何故?」「習志野市とどんな関係?」という疑問にお答えすると、月下氷人は145号「根ほり葉ほり」に登場の「やまみフルーツ」大野氏である。人見知りの激しかった幼児の頃の私は、毎日の買い物にほとんどお供し、母のスカートの陰から世間を眺め、少しずつ世界への扉を開けていった。かつて西ショッピングセンターと呼ばれていた商店街の始まりは昭和36年という。
優に半世紀を超える知己であり、里帰りのたび、お顔を拝見していながら、お名前を伺ったのは母の亡くなるほんの数ヶ月前だった。駅前から出る病院バスを待つ間、お店に立ち寄り、訊ねられるまま、母の入院を告げた。手早く包んで下さった見舞いの瑞々しい果物のお礼に再度立ち寄り、そこで初めて名乗ったのだ。それがご縁を深め、氏が「きらこ」へ繋げて下さった。故国の港に舫もやいを繋いで下さった氏に深謝。そしてその「きらこ」を経て、高校の同級生が私を再発見してくれた。今、通信履歴の4件に1件は彼女との遣り取りになっている。長年日本語教師を勤める彼女との「文通」は浦島太郎になりつつある私の貴重な玉手箱になり、白煙の中から忘れかけた言葉も時代も蘇る。勿論高校時代が遠い昔になった年齢も痛感するけれど…。ノコ、有り難う!
人との絆、縁の連鎖がこのように紡がれてゆき、存在をしっかり受け止めてくれる両の掌となり、さらに網目が編み出されてゆく。
啐啄という言葉を文字通り解釈すると、機縁に通じる、と勝手に思う。出会いにはタイミングがある。その機が熟して初めて生まれ得る絆がある。半熟で殻ばかりが硬かった子供の頃、高校時代、私には与えるものも、受け取る器も何もなかった。今の今だからこそ内から外から殻を破ろうとする啐啄の機に恵まれる。
コロナ禍もあり遠くなってしまった感のある故国が、それにも関わらず寧ろ時空を超えたことで、一層身近に感じられるのは、彼岸の父母との永遠の絆、そこから生まれた機縁ゆえである。
それでも父上母上、今暫くお待ちあれ。機は未だ熟しておらぬ故。