金縛りを経験した。
気が付いた時には卒論の締め切りに本当に待った無しだった。三日三晩、文字通り寝食忘れて、否、決して忘れはしなかったが食料を調達する間も、調理する暇もなく、食べるにも片手で済むバナナとミルクのみ。ひたすら原稿用紙に向かってペンを走らせていた。全く情けない。実家にいながら世帯主で一人暮らしになっていたのは北九州は西部本社に赴任していた父に母が同行していたためである。風光明媚、山あり海ありの小倉が母の気に入り、怠惰な娘は置き去りにされた。
流石に疲れ果て背中も痛み途中でゴロリと一休み。深夜の静寂(しじま)に終電だろうか遠く金属の擦過音。時を刻む柱時計の振り子。そのとき長針が真上を指し、やけに大きく鐘の音が響き、途端に動けなくなった。指一本動かせない。声を出そうにも唸り声しか出ない。恐怖よりも理不尽な事態に怒りがこみ上げる。「こら、悪ふざけはやめろ!今、忙しいんだ」と、一体誰に向かって怒っているのやら。が、それも脳内エコーするのみ。やがて解放されたが、またとない貴重な体験を憤懣が先行し、心ゆくまで怯えることなくやり過ごしてしまったことに妙に損した気がしていたっけ。しかしあの時、確かにはっきり「とき」の足音を聞いた気がするのだ。
初級日本語教室の第10課、時刻の言い方を習う。時間と時刻の違いを教えるために、まずは言葉そのもの、いつものように漢字の成り立ちから。手作りの教材を配付し説明する。時刻の『刻』はもともと亥=イノシシの頑丈で硬い骨を刃物で断ち切るさまが由来。口にしながら自分の言葉に背中がぞくりとした。妄想癖のある私。ステレオタイプの死神が大きな鎌を振りかざし、骨身を刻みにやって来る。キャ~!っと叫びたいのを踏み止まる。時を刻む、時刻。この秒針がコツコツコツと、私たちの人生の一瞬一瞬を刻み削り取っていくんですよ、と壁の時計を指差しながら厳(おごそ)かに言うと参加者の一人が「おぉ、哲学だ!」と感極まった声をあげた。
正月、死神ならぬ歳神が私たちの人生に新たな年月を授けてゆく。けれど考えてみればそれは時間が増すのではなく、おそらく既に定められた枠の中から小出しに与えられるだけなのだ。秒針の動きとともに人生が削(そ)ぎ落とされて行くとしたら、例えば漫然と眺めているテレビの前で過ぎて行く時間、インターネットでついサーフィンしてしまう数分、積もり積もれば何という壮大な人生の無駄使いだろう。秒単位に怯えている場合じゃない。
途端に焦り始める。取り敢えず1分という長さを思う。一番身近な代表的「1分」は電子レンジの温め機能。無為にターンテーブルの回転を眺めているのも間が抜けている。手始めにこの1分に何ができるか考える。先ずはスクワット。スロートレーニングで15秒をワンサイクルに4回。うん、なかなか有意義だ。他に腹式呼吸、腿上げ足踏みなど。以来これだけは簡単1分活用法としてほぼ定着。次は長めの時間について考える。健康維持も兼ねてこの頃は買い物に隣町のスーパーまで可能な限り歩く。往復1時間5km弱。一歩ずつが確実に目的地へ近づき、また家路を辿る。草原の涯てを並行して歩く雉を道連れにしたり、白樺並木の黄葉を眺めたり。この1時間は思考にうってつけで、ふわりと言葉が浮かんで来たりする。身体を動かしながらは頭脳労働に非常に効果あるそうだ。
焼き捨てて 日記の灰の これだけか
過ぎし日々の虚しさに山頭火は呆然としたか。時が尽き全てが灰に帰するとき、極小でもいい炭素の結晶の一瞬の煌(きら)めきを放てれば、と思う。
原稿を認める今も、コツコツコツと歳神の近づく足音が聞こえてくる。