KIRACO(きらこ)

暑い!今年の夏は本当に暑かった。

七月生まれの私、夏は子供の頃から大好きだった。でも今年だけはいささかげんなりしてしまい何もする気が起きなかった。バースデーパーティーを毎年やって下さる方々からのお誘いにも気持ちが乗り切れずにいた。だから、お店の従業員と一緒にホテルのディナーショーに行っただけで終わった。子供がいないせいだろうか? 私は従業員の男の子も女の子も皆、他人とは思えず可愛い。そのせいか、こんな誕生日もいいなぁと感じる楽しい時間だった。

次の日、下の弟からの電話で「娘が金沢から子供を連れて帰って来てるから皆で食事しない?」との誘いが来た。

私には弟が二人いる。上の弟は東京暮らしだが、市原に十何代か続いている家がある。彼は子供の頃から家を継ぐよう教育されているので、現在は東京中心の生活だが、あと二年ほどで市原の家を本拠にする暮らしにする話をしていた。長男なのだから、この家をきちんと守っていくのが務めだと言い聞かされて育ったので、責任感が生まれているのだろう。長男の嫁は青森県五所川原の出身。二歳年上の姉さん女房だ。スタイルが良くなかなかきれいな人。弟とは恋愛結婚だった。弟は小学校三年生から講道館に通い、中高そして大学も明治大学柔道部だった。二人の出会いは、銀座のたそがれ時。たまたま私も一緒だった。というのは、その日、父と母がそろって珍しく温泉に出かけていた。そこへ、父のお姉さんから電話が入り主人(私の伯父)がかなり危ない状態なので病院に来て欲しいとのこと。伯父さんには私たちはとても可愛がってもらっていた。両親が旅行中なので、二人の弟と妹と四人で伯父さんが入院している築地のがんセンターへ急いだ。伯父さんは、思っていたより元気で、私たちの顔を見て、喜んでくれた。私たちは少しホッとして、銀座で食事でもして帰ろうという話になった。

銀座四丁目まで来た時、反対側からこちらに向かって、三人の若い女性を連れた大学生が歩いて来た。その大学生が上の弟の同級生で、同じ柔道部の仲間だった。そして彼が連れていた若い女性三人は彼の従妹だった。ヤアー、ヤアーと互いに盛り上がりすぐに一緒に食事に行くと決まり、確か、オムライスかなんか一緒に食べた。三人の女性は青森県五所川原市が実家だそうだ。上の延子さんはドレス姿でデザイン画の先生だそうだ。次にピンク色のワンピースの人は東洋大学生、セーラー服姿の子は青森の高校の二年生とか。上京してきた妹を連れて銀座見物に来たと話す。思わぬ偶然に両方が喜んで楽しい食事をした。それがきっかけとなり私たちは仲良しになった。

高校生だった妹さんも東京の大学へ入学し、練馬の駅近くの一軒家で三姉妹が暮らし始めた。私は虎ノ門で喫茶店を開店し、にわかママになっていた。私たち二組は年齢が近いせいか、互いの家を訪ね会ったり、私の店へも遊びにきてもらったり親しさは増して行った。そうこうするうちに上の弟は大学を卒業し博報堂へ入社した。延子さんは、デザイン画の先生を辞めて、お父様が経営している青森のデパートの婦人部のデザイナーになった。一年後、弟は文部省から依頼があり、柔道の指導でフランスへ行くことになった。

その時点で私は弟と延子さんが結婚を前提に交際していたことを知った。私の両親も延子さんのご両親も古風なタイプであったので両家で揃い明治神宮にお参りし婚約を正式に決めた。延子さんも少し遅れてフランスへデザインの勉強に旅立った。二年の約束を果たし、弟は帰国、博報堂での勤務にもどり、あらためて二人の結婚式が東京プリンスホテルで行われた。新居として行徳のマンションを買ったのだが、すぐにサウジアラビアへやはり柔道の指導ため行くこととなった。長期間になりそうなので、弟は会社を辞め夫婦でサウジアラビアへ行く予定だったが、延子さんのお腹の中に赤ちゃんが出来たことが分かったため、弟は先にサウジアラビアに渡り、彼女は無事出産後、弟の赤ん坊を腕に抱えてサウジアラビアに旅立った。

それから十年余り・・・。一時帰国を何度かできたものの弟一家は、サウジアラビア暮らしがずっと続き、やっと日本へ帰ってきたと思いきや、すぐにアフリカのナイジェリアへに。暑さのくに、サウジアラビアでの暮らしにも、アフリカでのきびしい生活にも、彼女は愚痴ひとつこぼさず、一人息子を育てながら夫に寄り添い、二十年以上の月日を海外で送った。

帰国後は、東京に住み東京都柔道連盟の会長を務める夫につかえ一人息子の婚約も決まり、これから先、やっとゆったりした生活を送れるだろうと私なんかもホッとしていた矢先、先月のはじめに延子さんは急死してしまった。

彼女の一生を振り返りながら、私は人それぞれの幸せのあり方を考えている。

そして、延子さん、弟に尽くしてくれて「ありがとう」と心底感謝しています。