KIRACO(きらこ)

急に寒さがやって来た午後、久しぶりに実家のある市原の山奥に行った。六〇戸位の家があるが、ひっそりとして静かな雰囲気は少しも変わっていない。ただゴルフ帰りの車が時折走っていくだけだった。現在の当主は、私の弟又五郎なのだが、彼は長い間海外暮らしで、やっと日本に帰って来たものの、現在は柔道関係で責任ある役を仰せつかっているのと多少の仕事もあり東京の住まいにいるほうが多いようだ。月に二日位しか市原には行っていない。任期が終わり次第、市原に住むからとハッキリ言っているから、長男として生まれた責任は感じているのだろう。元々、私の家は、市原が本当の家なのだが、東京にも家があった。農業、林業、製材業が主な仕事だったが、私の祖父の代になってすぐに銀行を創業した。その後鳥海証券という証券会社も立ち上げ、県内に支店もだした。祖父の伯母になる人が東京で鳥海女学校という学校を開いていたが、千葉県内のそれなりの家のお嬢さん達が大勢入学したらしい。祖母は鳥海女学校の生徒さんだった。祖母の家は白子町にあり代々お城につかえる医者をしていた。どういう話でそうなったのかわからないが、祖母は鳥海女学校の学長様の弟のところへ嫁入りが決まったからと祖母の父に言われ、籠にゆられて一山超えて市原に嫁いだ。夫となった祖父は仕事一筋の人だったが、暇があれば田畑を回り、子供のいる人にはお菓子を配り「子供さんを二時間でいいから、お寺に通わせなさい、読み書きを私が教えてあげるから」と口説いて回っていたという。そして寺子屋勉強会をやっていたそうだ。

祖父には、実は兄がひとりいたのだが、剣術の修行をしたいと結婚したばかりの新妻を残し、お供を二人連れて、全国行脚の旅に出てしまった。そして、一年半後に村に帰って来た時は、お腹の大きい女性を伴っていた。新妻だった人は、実家に帰らず「嫁いだここが私の家」と言って村で暮らしていたが若くして他界してしまった。祖父の父が、長男である祖父の兄を廃嫡して、正式に私の祖父が当主と家を継いだのだった。

祖父は仕事一筋の人だったがお酒が好きだったという。祖母との間は仲が良く三男四女をもうけた。しかし、長男、次男と亡くなって三男である私の父が家を継ぐこととなった。しかし、父が九才になった時、祖父は病いに倒れた。そしてそのまま他界してしまった。あとを継ぐ父の仕事を番頭夫婦に祖父は細かく託してあったそうだ。子供のいなかった番頭夫婦は、親身になって、私の父を教育してくれたのだった。一方祖父は、祖母には、「女の子は花だから、着る物、飾り物は一切けちらずに精一杯与えてあげなさい」と言い残していったと言う。そのおかげで、私や妹は欲しい洋服などほとんど買ってもらえてずいぶんと得をしたものだ。私はもちろんのこと祖父は知らない。祖母が私が中学生になるまで健在だったから、可愛がってもらったし、教えも受けた。

銀行は、その頃あった小さないろいろな銀行はみな一緒になり、千葉銀行になった。証券の方は、祖父の兄が連れて帰ってきた女性のお腹にいた子供が男の子だったので、自分の娘の一番下の女の子と結婚させて後を託した。いとこ同士の結婚となったのだが、当家は遠い昔から、血族同士を結婚させて、出来るだけ県内の方と結婚し、新しい血を入れてきていると言っていた祖母の言葉とは反しているが、何があったにしろ次男の祖父が後継ぎとなった事を祖父は兄に対して申し訳ないと思う気持ちが強かったのだろう。

祖父の兄の家は、村で一番夕陽がきれいに観られる場所というかなり高い丘に造られ、屋敷の周りには椿の木でぐるりと囲まれていたという。その頃村の人は「椿屋敷」とそこを呼んでいたらしいが、実際は家族があまり村に降りてこないようにそんな場所を選んだのであろう。豊かだけど、何人かの人にかれながら、ひっそり亡くなっていた。

本妻さんもかわいそうだけど、お腹に赤ちゃんを抱えて村に来たその女性をどこかかわいそうに思えてならない。でもすべてを捨てて、その女性と別れずに暮らした祖父の兄もえらいと考える。その後二人の間にはもう一人の男の子が生まれ、その人は、大人になってから剣道の道場を千葉に出て開いていた。

私の父は、農業と林業を全て番頭さんにまかせ、東京に住んでいる方が多かったが、戦争が終わってからは、市原に帰り、製材会社やアパート経営等やりながら三人の子供を育てていた。私たち子供の頃市原家は、何十人もの方が働いてくれてたし、絶えずお客様がいたから、父と一緒に食事をした経験はほとんどない。番頭さん夫婦も亡くなり祖母も亡くなった。下の弟が生まれ四人兄弟となったが、私と上の弟と妹は東京に私が小学校四年生の時に私の中学受験のために父が建てた家に住むこととなった。それ以来夏休みに帰る以外ほとんど市原に帰っていない。父も母も亡くなり、妹も亡くなってしまった。小さな銀行の跡も椿屋敷も今は私のものとなっているが、椿屋敷なんて木と草に覆われていてたどり着くこともできない。上の弟はいずれは、この地に帰って、お墓を守って生きて行くだろう。

私もお墓参りだけはしたが、そのまま帰ってきた。

日々、あわただしくめったに故郷の事など想い出さない私。だけど・・・・やっぱり、なつかしい昔のことが一挙に胸いっぱいに広がった。そんな思いが、この文章を書く気に私をさせたのだろう。