前座修業に入った一年目、鞄持ちとして毎日、亡き師匠に付いて歩いた。ある日師匠は、神田駅のガード下にある薄暗い事務所を訪ねた。共立芸能社という古い芸能事務所で、部屋に入るとすぐ目についたのは、歌謡ショウの司会と漫談で一世を風靡した故宮尾たか志先生の写真。ここはかつては宮尾先生の事務所で、師匠は、宮尾先生とはネタを作り合う仲だったという。そこに居らした、品の良い白髪の御老人がK社長だった。「これは駿之介といいまして、暮らしは決死隊のようなもので・・」と、私に何か仕事をくれるようにと師匠が紹介をしてくれたおかげで、後日、K社長から声が掛かったのが、八王子方面での司会のお仕事。子供の頃の芸能活動はさておき、講談の前座仕事以外では、これが初めて頂戴した、いわゆる〝営業〟の現場だった。当日、K社長に連れられ八王子まで行くと、駅前には地元八王子の芸能社のM社長が待っていて、車に乗せられどこかの山奥へ。神社に着くと境内の特設ステージで歌謡ショウ、村の夏祭りだった。夕方の開演で辺りは真っ暗。屋外ゆえ、ステージの照明にたくさんの虫が集まって来て、終演後に足袋の裏を見ると、踏まれた虫がびっしりと張り付いていた。演歌の紹介の合間に講談で場をつないだ。この時のギャラが一万円。K社長に請求書を書いてくるよう言われたが、書き方もわからない。スマホも無い当時、事前に師匠から請求書の書き方を教わって持参をした。
八王子のM社長は、近隣の村の祭りを一手に引き受けていた。「コイツはそこそこ喋りが出来る」と思われたか、翌年も三か所の祭りでお呼びがかかったが、今回は何故か、M社長から直接の電話。K社長には筋を通したのだろうか?まだ講談界最新人の私では、それを確かめるような事を聞ける立場でもなかった。歌い手のギャラに比べればたいした金額ではないが、K社長を通さずに私に直接一万を払えば、M社長は司会者のギャラを前年より安く押さえられる。やはり八王子駅前で車に乗り、津久井湖畔を通り神奈川県内のどこかの村のお祭りへ。イベント終了後、すぐに撤収かと思ったら、村の役員連中の打ち上げにまで付き合わされ、八王子駅に戻ってきたのは新宿行きの終電間際。結局平井までは帰れずに、新宿のサウナに泊まる羽目に。料金七千円は自腹で。M社長からは、この日のギャラは貰えずじまいで、正直痛かった。三日目に三万円まとめてくれるのだろうと思っていたが、甘かった。最終日もその場での支払いは無く、振り込み先を聞かれるでもなく、M社長からはその後も、とうとう三日分のギャラが支払われる事は無かった。師匠に相談すると、「本来は一番安い君に、一番最初に払ってしかるべきなのにな・・」とは言ってくれたが、相手が芸能社の社長では、演者は泣き寝入りするしかなかった。
驚いたのは翌年、何事も無かった様にM社長から、今年の夏も頼むよという電話が。「あの、去年のギャラをまだ頂いてないのですが・・」「今年の分と一緒に払えばいいだろ!」と言う。去年のギャラを人質に取られたのではやるしかない。さすがに三年目のこの年は、何度もギャラの念押しをしたため、昨年分とあわせて六万を渡してくれたが、帰り際、「金の事をガタガタ言いやがって!」と吐き捨てられた。亡き父は八王子の社長とは同業、名古屋で芸能社を営んでいた。子供の頃から、自分なりに芸能界を知っているつもりでいたが、いわゆる悪徳芸能事務所、世間にはヒドい大人が居るものだと、苦い経験をした。
昨年、ひょんな事から再会した尾崎正道さんは、昔ながらの炭焼きを広める活動から、炭焼三太郎の愛称で親しまれている元八王子市会議員。ここ数年私は、沼津の偉人「江原素六伝」の口演で頻繁に沼津市訪問の機会があるが、頼重秀一市長とは何度も面会。今では、そのお人柄を尊敬申し上げている。すると三太郎さんも、沼津の友人が市長の後援者という関係で、市長をよくご存じと聞きびっくり。「講談師っていい仕事だね。尾崎一族の偉人、憲政の神様・尾崎咢堂を講談にしたら?東京の水源確保のため咢堂が調査・滞在した山梨県丹波山村にも行ってみよう」「是非お連れ下さい!」二つ返事でお願いしたのは、明治以降の人物伝への興味は勿論だが、亡き師匠が若い頃、「君は骨格が尾崎咢堂に似ている、咢堂の如くヒゲを生やせ」と言われた事が「ヒゲの一鶴」誕生のきっかけでもあったから。1月26日、三太郎さんと八王子駅で待ち合わせ。途中、咢堂生誕の地に寄ると、ここが旧津久井郡又野村。津久井湖畔を車で走るうち、二十数年前の出来事を思い出したが、今となっては前座時代の笑い話。M社長には、面白いネタを提供してもらったのだ。木下喜人丹波山村長を表敬訪問。尾崎咢堂伝は、丹波山の村祭りで発表してみたい。