KIRACO(きらこ)

子供の頃は、お正月がくるのがとても待ち遠しかったものだ。私の実家では、お雑煮には、里芋しか入れない。武家の習わしとかで質素に心がけるから正月からその心を守り続けているそうだ。大きな炉が切ってあり、冬になれば、一日中、赤々と火が燃えていた。その部屋はとても暖かだった。お雑煮は、上から吊るした大きな鍋で焼きあがったお餅を、どんどん入れて作った。お餅は原形をとどめない位煮えていたが、柔らかくなった里芋と一緒に食べるとおいしかった。母は嫁に来た当初、そのお雑煮にびっくりしたが、慣れてくると、どこのお雑煮よりもおいしいと感じるようになったと話していた。

だしは、かつお節をたくさん使って海苔じゃなくて「はば」を入れていた。一人ずつ会席盆の前に正座して食べる。子供には生まれるとすぐ、その子の使う会席盆を注文するそうだ。私のお盆には「おもと」が書かれている。黒字に万年春の緑と赤い実が映えて美しかった。私は子供心に、そのお盆が大好きだった。祖母が「庸子のお盆は、私が考えて、注文したんだよ」とよく言っていた。

私の実家は市原の山奥にあるが、私は東京で生まれた。小学校四年生の二学期までは実家にいたが、受験の為、弟と妹と東京に移ったので両親とは私が成人するまで一緒に住んでいない。市原の実家はかなり不便な所だけども、それでも六〇戸くらいの家があり、みんないい人ばかりすんでいるので、私も無性に市原に帰ってみたくなることがある。長男である上の弟はその家を継ぐ立場なので大変だ。仕事があるので月に一度くらいしか市原に行けないそうだが、この数年の間に移り住むと聞いている。この市原での思い出は強く残っている。いろんな形で・・・・。

元日の朝について私は忘れられない風景があった。それは、父が番頭さんと一緒にお米、水を入れた一升瓶、榊の枝を持って出かけていく。一時間ばかり経つと帰って来るのだが、子供心にも不思議に感じられることだった。

その謎が解けたのは、私が結婚して一月ばかりが経った時だった。村には結婚すると花婿、花嫁が揃って墓参りをするという習わしがあった。私の場合いも儀ちゃん(亡き夫)は面倒くさがったが、母のたっての願いで、市原の私の実家の墓参りに行った。お墓参りがすんだら一緒にいた上の弟がもう一か所どうしても行っていただきたい所があるのでついてきて欲しいと言う。何処に行くのだろう?と不思議に思いながらついて行くと、村のはずれにある小高い山を登りだした。山のてっぺんに着いた。そこは少し平地になっていて、大きな楠の木が一本立っていた。そして、その下に人の頭位ある大きな石が二つころがっていた。弟が「石に手を合わせて下さい」と口にする。言われた通りにしてから、「ここに何か埋めてあるの?」と私は聞いた。儀ちゃんが「もしかして、金銀小判とか」と冗談めいた口調で言った。弟は「いや。そんな物はないと思いますが・・・。この話は家に帰ってから説明します」と言った。家に着くと、母が「まあ、二階でゆっくりして下さい」と案内された。親戚の人が二人すでに座敷に座っていた。すぐにお酒が用意され宴会となった。屏風等は、滅多に出さない昔から伝わっているという品が出されている。母と手伝いに来ている叔母さんが、次々に料理を運んできた。「こんな山の中ですので、こんな物しか出来ませんが、是非お召し上がりください」と母が言った。

鯉の洗いなんか並んでいるので養老渓谷の料理屋さんに頼んだのだろうと私は察した。この時分、母もほとんど東京で暮らしていたので、わざわざ、何日か前に東京から来て家の掃除をしたり、蔵から食器や座布団等を出したのだろう。滅多に使わない食器が使われていた。私は、四十になっても結婚しない私が結婚したことが、母を安心させ、喜ばせたのだとしみじみ感じていた。夕闇が少しずつ家の中を暗くしていく。母は電気を付けず、太目のろうそくを何本か用意してあり、所々に置いて燈を灯した。

山に囲まれた中に座敷が浮かび上がり、なんとも言えない優雅な雰囲気が漂った。儀ちゃんが「こんな世界あるんだねえ」と感心した声を出す。

弟が「あの石の下には二人の人が埋められているそうです。何代か前の当主と隣の家の若奥さんだそうです。二人は許されない恋に落ち、別れるより死を望んだそうで、重ね切りされたそうです。その時から我家は、屋号を「新宅」に変えたそうです。その後、養子で家の当主になった男の人の家を「本家」と呼ぶようになったそうです。この話は、家を継ぐ長男には、しっかり教えられてきました。僕は父に聞かされこの話を知りました。父は元日とお盆には、必ずそこにお参りしてたそうです」

私は思いがけない話にがっくりしながら、少し謎がとけたと思った。みんなやや少しの間、黙ったままでいた。空にはほそい三日月が浮かんでいた。