子供より親がダイジ、と思いたい。
いつの頃からか、不意に心に浮かんでくるフレーズ。親と子の狭間に立ち、人生の中間管理職のような立場になってからだろうか。出会った思春期の頃にはただノリのいいコピーに思えた句が、追体験を重ねるに従い、古い傷跡のように気になってくる。
確かにダメでダサイ男だ。けれど、もっと後の時代に生きていればコピーライターとして一世を風靡し、選考委員川端に愁訴し、佐藤春夫に4メートルもの巻紙の手紙を押し付け芥川賞をおねだりせずとも(少なくとも)経済的には大成功を収めたであろうダザイ。今また国内外において空前の再ブームだそうだ。6月19日桜桃忌、庭のサクランボが色づきはじめる頃、太宰治を偲ぶ忌日になる。
この「大事」をどう解釈したものだろう。ダイ事、と大ジ。どこにアクセントを置くかで全く意味が違ってくる。『桜桃』に描かれる家庭では確かに親には日々の生活がすでに「オオゴト」だ。子らは「大事に」せずとも旺盛な生命力で親のいのちを貪る。
十余年前に母親が急逝し、独居になった老父の元へ戻った独身の友人が言った。
「ホントに年寄りは我儘で……。」
いやいやいや、違うだろう、と思わず口に出た。
「我が身を振り返ってみなよ。こちらの方がよほど我儘だったじゃない。世界の真ん中で『私が!』『私に!』『私を!』と、格助詞を総動員して叫んでいたのは子の側だよ。」
あ、そうだった、と彼女も身に覚えがあるのだろう、即納得した。
あれは補習校高等部の担任だったとき。ある日の放課後、ゆるりと漂う紫煙の中に斜めの視線を感じた。
「ねぇ、センセィ……」
しゃきっと背筋が伸びた。イヤな予感。
「ウチの娘がね、『センセェが親の言うことなんか聞かなくていいって言った』と言うんですョ。」
いやいやいや違うよ、ユキちゃん。そういう都合のいい端折りかた、しちゃダメだよ。
慌てて釈明に努めた。
若者は大人の言葉に従えないときが必ずある。自分の心にのみ従わねばならないときがくる。そうでなければ成長できない。
タ、ダ、シ。
自分の言葉と行いを忘れるべからず。それによって自分も人も傷つけたとき、その痛みを決して忘れてはいけない……。
肝心な部分が、すっぽり抜けてんじゃない。まったく、子供の耳には都合の良いフィルターが付いている。
ドイツ語で「カラスの母親」という表現がある。童話の継母のように薄情な親のことを言う。しかしこれはまさにカラスの濡れ衣濡羽色。
期せずしてこの桜桃の時季、身に覚えがないままカラスに襲われるという被害が増える。子育て中のカラスが過敏に警戒するためだ。知能の高いカラスは雛も好奇心旺盛ゆえによく巣から落下する。それを「子捨て」と看做されたようだ。
社会生活を営むカラスは子育てにも熱心で、雛の安全にも必死な良き親なのに、本当に濡れ衣。
そういえばここ数年の流行り言葉なのだろうか。近頃見聞きする苦味ばかりが残る言葉、「毒親」。
曖昧なものが名を与えられたそのときから市民権を得、独り歩きを始める。日本から届く様々なメディアで見かけるようになった。実際、児相や警察が介入すべき事案も恐ろしいほど多い。
けれど色々読むと、単に我意が通らないことに不満を募らせ、相手を非難し「毒」とするものも多いようだ。
AIとの恋愛、果ては結婚する者もいるという。全て意のまま肯定してくれるのが良き伴侶、良き親なのだろうか。他者との切磋琢磨なく、いつか自分の翼を広げ巣立っていけるのだろうか。
子育ての季節、地表を固められた人間の領分で、カラスもハリネズミもどんなに苦労しているだろう。子には必死の親がいる。
子供より親が大事と思いたい。
今日も餌を置いてくる。
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