KIRACO(きらこ)

Vol141 カラーコーディネート(上)

2020年1月30日

中田芳子さんのエッセイが読めるのはKIRACOだけ

カラーコーディネート(上)

この欄の末尾に、毎回私のプロフィールを載せて頂いていますが、その中に記されている《YAMAHA・jet会員》というのが現在の私にとって唯一、社会との繋がりを保つ糸ともいえる《肩書き》なのです。

ヤマハとの関わりはもはや半世紀。三十代の後半、講師の資格を取ろう!と思い立ち、当時募集中だった試験を受けたのが始まりでした。以来、ずっと銀座店に属し、レッスンはもちろんのこと、各種の研修にも熱心に通い続けました。でも齢よわいを重ねるうち、机を並べて勉強するお友達は二十代三十代の、孫のようなお嬢さんたち、さすがに気が引けてきます。しかもその頃から、私は例の《逆さ歌》にのめり込み、毎月送られてくる《研修のお知らせ》にもついついご無沙汰を続けていたのでした。

ところがこの秋届いた研修日程表の中に、いつもとは違う項目が…。「カラーコーディネート」!以前から興味…いえ、どちらかというと《カラー音痴?》の劣等感に苛まれていた私にとって、この研修はもう年齢の差などメではない、又とないチャンスに思えたのでした。

以前まだ孫たちが一緒に住んでいた頃、「ばあちゃん、その色の組み合わせ、なんかヘンだよ。色がぶつかってない?」などと服の色を指摘されても、全然ピンとこない、そんな私なのです。

考えてみると私が生まれ育った一九三〇~四〇年代の日本といえば、戦前戦後の灰色の時代。目の前に拡がる世界は軍服のカーキ色とか、輸送船の鉛色とか、総べてが沈んだ、暗いものかりなのでした。ですから、こと色あいに関しては殆ど《無頓着》に近かった・・・と言えるかもしれません。

ただ、未だに子供の頃の強烈な想い出として残されているのが、当時住んでいたタイペイ市で、小学五年から二年間通ったNHK放送局での一場面です。

それは太平洋戦争勃発の翌年でしたが、放送子供唱歌隊に選ばれ、初めてスタジオに足を踏み入れた途端、張り巡らされた遮音カーテンの、鮮やかな、それでいて深い真紅・・・天井から床まで垂れた美しいビロードの薔薇色にすっかり心を奪われたのです。

それは戦争中の、殺伐とした日常を忘れるほどに美しい色あいなのでした。
それが初めて『色』というものの魅力を感じ取った一瞬だったと思います。
しかしそんな日々も束の間でした。
敗戦・引き揚げ・生活困窮・・・と、怒涛のような悲惨な逆転人生の幕明け。

引き揚げ後に転校した高校では制服は紺、セーラーカラーに白線二本と規定されていました。でも引き揚げ者の私には手に入るはずもなく、年上の従姉から譲り受けたお古の制服を前に思案投げ首の私でした。なぜなら、襟は兎も角、身頃はもうヨレヨレです。

そこで私は一計を案じ、父の古い着物=但し色は淡いグレイでしたが=を解いて作り直すことにしたのです。我ながらいい出来で、翌日からそれを身に付け勇んで登校しました。

そんな異色の制服は、全校で私ただひとり。でも不思議なことに先生から咎められることもなく、友達の間でも誰ひとり揄ったりする子もいなかったのです。今思うと不思議な気がしますが、私がなんの躇いもなく、当たり前に振舞っているので、違和感すら感じなかったのかもしれません。

でも後日、これはもう私が結婚して子供も大きくなった頃、母が「よっちゃんは昔から度胸がいいって
いうか、高校の頃、一人だけ違う色のセーラー服を着ていたでしょう。学校に行くと、どこにいるかすぐ分かって見付けやすかったけど、お母さんはね、ほんとうはよっちゃんは恥ずかしくて、悲しい思
いをしているのだろうにと、可哀想で仕方なかったのよ」そういうのです。と、とんでもない!そんな想いはユメユメなかったのに。

親心の有り難さを痛感しながらも、やはり私はちょっと規格外れの人間なのかもしれないナと、改めて思うのでした。

さてその日の研修ですが、まさに《目から鱗》のステキなお話ばかりでした。
残念ながらページが尽きてしまいました。

次回この続きを、とんでもないオマケ話も一緒に添えてお届けしたいと思っています。乞う、ご期待!