KIRACO(きらこ)

Vol150 千葉の海に救われた後藤新平

2021年7月8日

一鶴遺産

Vol150 千葉の海に救われた後藤新平

6月3日、宝井琴鶴と開いた二鶴会は、日本橋亭の感染対策による席数制限で、五十人限定の会となったが、予約のお客様のみで大入り満員だった。昭和54年6月1日に、亡き師匠一鶴と、先代琴鶴(故六代目馬琴)先生の二人が上野本牧亭で開いた二鶴会は、開演時間になっても一人のお客も現れず、お流れに。後日、「客入りゼロの二鶴会」とアサヒ芸能にスッパ抜かれた。一鶴は「珍記録が話題に」と喜んだが、先代は「不名誉な会を記事にされた」とお冠。二鶴会が、二度と再び開催されることは無かった。一昨年、後輩が琴鶴を襲名した事もあり、亡き師から噂を聞いていた私が、「伝説の講談会42年ぶりの復活」として企画。千葉県内からも大勢駆けつけて下さった。おかげ様で、客ゼロ記録の復活を免れて満席。この点だけは、師匠の墓前に胸を張って報告が出来る。次回は、10月11日(祝)18時から同じ日本橋亭で開催が決定。すでに御予約を受け付けている。03(3681)9976迄。

このところ、江戸川区在住の私の興味と足は、お隣千葉の海沿いの町へと向いている。水際対策の徹底が求められる昨今。日清戦争の際、大陸から23万人の将兵が帰還。検疫を迅速的確に実行し、コレラの蔓延を防いだ後藤新平の手腕が、再評価されている。広島の大本営へ向かう直前、新平の姿は、千葉県にあった。いくつかの伝記に「失意の後藤新平は、房州保田の〝破れ寺〟で薪割りを日課としていた」とある。明治期の衛生行政のトップ、内務省衛生局長に36歳で上り詰めた新平は、その一年後に逮捕され失脚、人生の絶頂から転落という憂き目に。相馬事件は、新聞報道はもとより、時の講釈師たちも各地の高座で事件を題材に口演するなど、世間に大きな影響を与えたお家騒動。事件を引き起こした旧中村藩相馬家の元藩士・錦織剛清を医師の立場から支持した新平も連座、五ヶ月の入獄を余儀なくされた。証拠不十分につき釈放、無罪となったが、潮が引くかのように周囲から人が遠ざかっていった。新平の故郷、奥州水沢の後藤新平記念館の略年譜には、明治27年5月25日に出獄、8月、「保田の存林寺に家族と静養中に自叙伝を書く」の記述が。

内房線保田駅から徒歩10分。亀福山存林寺は、寛政9年の本堂再建の際、葛飾北斎に影響を与えた波の伊八が、須弥壇の彫刻を手懸けた事で名高いというが、案内板に後藤新平への言及は一切無い。広い境内のそこかしこは手入れが行き届き、多くの檀家さんがあるかのような立派な寺院。かつて新平が隠遁をしていた破れ寺とは、とても思えない。本堂を開けると、留守とみえて真っ暗。雨も降りだしてきて、両の手をあわせ、これでもう失礼をしよう、振り返ったその時、一人の女性が駆けていらしたから声を掛けると、この方が、東堂(前住職)夫人の山本房子さん。「こちらは後藤伯が居たお寺で間違いないでしょうか。」「ええ、どうぞこちらへ。」明かりをつけてもらった本堂右手に、現れたのが「啓智成徳」という額。そこには確かに〝新平〟の署名。隣には倍の大きさの額が。読めはしないが、新平に書道を教えた先生の書で、後に台湾民政長官となった新平は現地のインフラ整備を進めるが、その橋の一つは、この先生が筆を執ったのだという。「たぶんこの部屋にいたのでは?」と本堂脇の庫裡へもご案内頂く。窓から見えるは鋸山。建物も少ない頃は海岸も望めたであろうし、新平はここで薪割りに勤しんでいたのかもしれない。「講談で破れ寺なんて表現をして、お詫びを。」「いえ、昔はそうだったの。」と、延享4年建立、茅葺き屋根だった当時の山門の写真も拝見。「破れ寺の方が面白いわね、今後もそのままで。」とお許しまで頂戴した。何故、後藤一家がこの存林寺のご厄介になったのか、定かではないそうだが、お寺は、平成5年まで民宿も営んでいて、明治・大正の頃より、数多の大学等の夏期合宿などを受け入れてきたという歴史がある。明治22年8月、学生時代の夏目漱石が海水浴を楽しんだ事から、保田海岸には房州海水浴発祥の地の碑が建つ。明治15年、新平にとって初の著書が「海水効用論」。愛知県病院長として知多半島大野の海岸を調査。実体験を踏まえて、良好な海水・海気・眺望が海水浴の効能と紹介。日本人の海水浴普及に努めていたのは他ならぬ新平だった。東京からほど近い千葉の海で、命の洗濯をしていた新平に「スグニコイ」という一通の電報が広島から。差出人は、新平の身を案じていた内務省の先輩・石黒軍医総監。その推挙で、陸軍臨時検疫事務官長を拝命。この検疫事業の成功で再起を果たした後藤新平は、政治の表舞台へ躍り出る事になる。

後日、袖ヶ浦市郷土博物館「病と医療」という企画展。県民の感染症等の病気との戦い、衛生・予防医療の実際が展示。新平を内務省に採用した、長与専斎初代衛生局長が発行の医師免許もあった。次に木更津。講談・お富与三郎の史跡を巡るうち、一枚の地図に目が留まる。昭和4年の木更津町鳥瞰図復刻版。作者の松井天山は昭和初期に県内27の市町を描き、戦後市川で没した。亡き師の養父の文具店・フタバヤが載った浦安の鳥瞰図が天山作で、興味を持っていた。この地図を販売する紅雲堂書店は、創業明治元年当時の建物で営業中。店主・鈴木美和子さんは、天山の事はよくご存じでないそうだが、郷土資料が充実。また勉強に伺いたい。館山北条海岸では一泊。第二次桂内閣で初入閣の後藤新平鉄道院総裁は、明治44年、視察に訪れた北条で木村屋旅館に宿泊。その際、安房郡町村長らの請願を受け、木更津線を延伸し今の内房線に。戦後は、数多の海水浴客の足となった。千葉の海に救われた、新平の恩返しに違いない。

田辺鶴遊(たなべかくゆう)

名古屋生まれ静岡育ちの講談師。師匠の田辺一鶴没後、宝井琴梅門下。平成27年真打に昇進し、田辺鶴遊を襲名。演目には、「豊竹呂昇」「高野長英」「後藤新平」「斎藤実」「徳三宝」「江原素六」「遠藤実」「古賀政男」など人物伝が多数。朝日新聞千葉版木曜朝刊「千葉笑い」選者。

<出演予定>問い合わせ・・TEL03-5272-0301(藤原書店)

◎7月3日(土)13時半~「2021年度後藤新平の会シンポジウム」入場料:3000円(先着100名)於:内幸町・日本プレスセンターホール 出演:鶴遊「後藤新平伝」・橋本五郎(読売新聞特別編集委員)・青木理(ジャーナリスト)・江上剛(作家)他