Vol151 真夏の花と空
四街道駅から千葉へ向かう通勤路の途中に真赤なカンナの花が密集している空き地があるのを車の窓越しに見つけた。
夏のきつい太陽に負けず、空に向かって威勢よく咲き誇るこの花が私は大好きだ。
意気地なしのくせに負けん気も強い私、きっと心のどこかでこの花の強さに憧れているのだろう。
今、私は「きらこ」の井手さんにせかされてこの原稿を書いている。
さぼっていて、今月も井手さんにご迷惑をかけてしまったと、胸の中で謝りながら・・・。
すぐ書ける、いつでも書けるというと私のいいかげんさが毎回井手さんや印刷所の方を困らせている。
充分反省しているのにこの始末。
何事も真剣にならなければダメだよと自分を叱っている。
「きらこ」は題材が自由なので楽しく書かせてもらっている。
それと井手さんのお人柄も好きだ。
これだけ長い期間ずっと続けておられるご努力と熱意にも頭が下がる。
一時私は五誌に連載していた。
かなり忙しかったが苦にならないし、たのしみでもあった。
嬉しいのは読者からのお便りや励ましだった。
でもそのうちの二誌がなくなってしまった。
一誌は経営者がご高齢になって後継ぎがなかったための惜しまれての廃刊。
ここには小説「夢子」を連載していたのが廃刊にあたり、経営者の方は、それだけが残念とおっしゃっていたので、その後「夢子」はどこにも載せず、本として書き上げている。
五刊本なので、現在は三刊目まで出ている。もう一誌は、社長さんが亡くなられた事により発行されなくなった。
亡くなられる少し前まで私にところへ原稿を取りにみえて下さっていた社長さんのお姿が忘れられない。
私よりずっと若かったのに。
一か月一回の連載で、一回の枚数が四百字詰め原稿用紙十六枚。
社長さんに二時間位待って頂いて書いていた時が多かった。
どんどんお身体が悪くなられ、つらそうだったが一言も愚痴はおっしゃらず、本に取り組んでいられるご様子に、私は心を込めて書かねばとペンに力入れる時が多くなっていた。
書いていたのは、「吉成儀物語り」だった。
吉成儀という人の、生まれてからこの世を去るまでの本当の姿を細かく書き残しておきたいと考えて取りかかった。実家の皆様や知合いの方々に話を聞いたりして取りかかった。
評判も良く、早く本にしたらという声も頂いたが、まだ私と吉成が結婚する前の誌面で社長さんがお亡くなりになってしまった。何故かその時点で私の書き続ける気持ちが失せてしまい「吉成様物語り」は未完になってしまった。現在出版の世界は大変だと思う。
そんな中、頑張っている井手さんには敬意を表したい。
私は四年前から千葉市内で会員制「ラウンジ夢子」をやっている。
営利目的ではなく、良い人の輪が生まれればというのが目的だ。大きさは違うが、父がそんな思いを込めて「水穂クラブ」というのを開いていた。
父もなくなり、そこもやめたので、せめて、父の想いを継いでいけたらと始めたのだった。
店の名前も「水穂クラブ」と考えていたのだが周囲の方々から「夢子」がいいとお声があがったのでそうしている。
この「夢子」、コロナの関係で休業中だ。
考えてみるとコロナ騒ぎになってから、三か月も営業していないじゃないだろうか?
結婚してからは、ずっと専業主婦だったが私は学校卒業一か月後から店を始めてその後の約二〇年間は飲食業一本で過ごしてきた。
他の仕事は何一つしていない。
何の経験も無く入った道だが、店も増やしたし、本当によく働いた。
「お客様は神様」という言葉があるが、わたしは心からそう思っている。
だから、休日残業している社員におにぎりを配って歩きもした。
東京タワー建設中に真夜中、お得意さんの社員が作業していると聞き、寒風吹きすさぶ真夜中、下まで暖かい珈琲や夜食を差し入れに行った事もあった。
そんな私だから、お店を閉めているのは本当につらい、頭では閉めた方がいいと解っているのだが、そうすべきと考えているのだが、心のなかは複雑だ。
早くコロナが去ってくれるのを切に祈っている。
八月十五日、吉成は必ず靖国神社へお参り、その後、千葉県護国神社へお参りしていた。
特攻隊生き残りの彼としては、どうしても欠かせなかったに違いない。
彼の死後は私がずっと続けさせて頂いている。
外れ女房といつも儀ちゃんに言われていた私だけど儀ちゃんが熱心だった歴史問題、憲法問題、皇室を貴ぶ気持ちなど、私一生懸命やっているからね、空の上から応援してねと、入道雲の湧いている夏空を仰いで、つぶやいている私だ。