KIRACO(きらこ)

Vol153 講談師であればこそ

2022年1月13日

一鶴遺産

昨年の本誌150号で紹介した後藤新平ゆかりの寺、鋸南町保田の存林寺。前住職夫人・山本房子さんからのお電話で、名前はわからないが、きらこの読者という方が、一鶴遺産に出ていたからと、お寺を訪ねていらしたということを聞いた。

講談師という生業は、高座で喋るのみならず、事あるごとに文章を書く機会が。人にもよるが、古典、新作を問わず、自らの台本作りは、取材や、数多くの資料を参考に一席の講談にまとめ上げる。また、講談師であれば、新聞・雑誌などからの原稿依頼もままある事だ。
亡き師匠も、新作講談はもとより、新聞・雑誌等、膨大な文章の類を残したが、意外にも、著書という形では一冊も残していない。
私が、鞄持ちをしていた当時も、本の執筆依頼は何度もあった。
師匠もその気になってワープロに向かうのだが、しばらくすると、興味は別の題材へと移ってしまい、いつまでたっても本の完成を見る事は無かった。しかし、スポーツ紙を含めて新聞は、全紙に毎日目を通し、古書など、資料の収集に八方手を尽くし作り上げる創作講談で世に出た師匠。
自分は〝書ける講談師〟と自負していた。

そんな師匠が、創刊から筆を執ったのが「きらこ」だった。
その時々の活動、過去の仕事と交友関係、師匠(南鶴先生)の思い出に連続講談などなど、二か月に一度、必死に書いている姿を、傍で見ていた。
「きらこの原稿料が入ったよ」と、ニヤリとした顔も思い出されるが、掲載誌が編集部から届くと、「君の手元に置いて、将来一鶴物語でもやっておくれ」と、毎回数部ずつ手渡してくれた。
きらこを読めば、師匠の言葉や、考えていた事がありありと蘇る。きらこを開けば、いつでも師匠に会えるのだ。
手元に保存することの出来る、新聞や冊子の良さ。
私はいまだにネットよりも、実物を、より信頼している。

師匠の没後、「一鶴さんのコーナーを無くしたくない」という井手さんの言葉が有難く、きらこの連載を引き継いだ。「一鶴遺産」というタイトルの為、毎号なるべく、師匠にまつわる話を入れながら、ある講談師の活動記録として残る事も意識し、力を入れて、回を重ねてきた。とは言うものの、取り立てて上手い文章ではない。
習志野の皆様に身近な内容ではないし、一鶴の弟子とは言いながら、無名の一講談師の勝手気ままな日常の羅列に、いったいどれほどの読者がいらっしゃるものかと思っていたところ、冒頭のお電話。連載受け継ぎ十二年。
きらこを片手に訪れたという、読者の初めての反応を耳にし、嬉しかった。

朝日新聞千葉版木曜日の朝刊、読者投稿による笑文芸欄「千葉笑い」。
長年、選者を務められた放送演芸作家、遠藤佳三先生のお別れ会が、10月30日に浅草で開かれた。
笑点の構成作家として有名だった遠藤先生は、市川在住の演芸評論家・故小島貞二先生の門弟。小島先生が発足させた笑文芸サークル「有遊会」の代表や、やはり小島先生が発案した「千葉笑い」欄の選者を受け継がれた。
生前、有遊会の旅行では、私の紹介で訪れた久能山東照宮の本殿の見学を、何より喜んで下さった。
私が初めて出したDVD講談集には、「若手講談師としてイチ押しといえば先ず田辺鶴遊」と推薦の言葉を頂いた。
また、文化庁芸術祭参加公演では、対談ゲストでご出演頂くなど、仕事面でもお世話になった。体調を崩されてから、後任の選者に私を推して下さったが、躊躇する私に、「あなたが講談の真打だからいいんです。千葉笑いをお願いします。」と一言。亡き師匠ならば、きっと喜んで引き受けるだろうと思い、お受けをした。

昨年、緊急事態宣言に伴う度重なる休載や、新聞の購読者数減少等の影響で、「千葉笑い」欄は継続に黄色信号が点灯していたが、担当の京葉支局や販売部の方々の頑張りで、月に一度にはなるが、今後も掲載が継続される事に決まった。選者として身の引き締まる思いをしている。
小島先生が、千葉寺の大晦日の奇習に着想を得て、昭和61年以来連載1700回以上。全国の朝日新聞地方面では、連載最長記録のコーナーで、コント・川柳・折り込み都々逸・回文・アナグラム…と、何でもござれの「千葉笑い」に、是非ご参加の程を。

師匠亡き後、弟子一同の集まりの席で、台本、写真、掲載誌、チラシ、映像、録音など師匠に関する資料の一切は、駿之介(私の前名)に預けるという決定が下った。
以来、不肖私が今日まで、倉庫を借りて師匠の荷物をお預かりしている。
長年、演芸に理解のあった平井駅前の三木不動産、三木隆・文子ご夫妻が、古い一軒家を格安で、倉庫として貸して下さっていたが、駅北口の再開発で立ち退きを余儀なくされたのが、一昨年三月。その際、引っ越しを手伝ってくれた芸人仲間だけで寄席をやろうと企画。コロナで、それどころではなくなっていたが、昨年11月25日、浅草・木馬亭で三年ぶりの主催公演「田辺鶴遊講談会」をついに開催。満員御礼となった。
講談はもちろん、浪曲・漫談・落語などを一度に楽しめる演芸会。
特別ゲストには、テレビでおなじみ、橋本五郎・読売新聞特別編集委員をお迎えし、「歴代総理に見る人情」と題する対談をお願いした。

数年前、私が「後藤新平伝」で出演した「後藤新平シンポジウム」の進行役が五郎さんで、以来、度々ご一緒している。
対談相手について、様々な情報に当たり、その著作を勉強するのは、礼儀としても当たり前。五郎さんについても、出来る限り多くの掲載記事を集め、現在、手に入れられるだけ全ての著書も読んではみたが、その知識、経験、教養の深さに、驚嘆。出演を気軽にお願いしてしまい、少々反省もした。書評集などは、自分の理解力を超える内容も多々あり、がっくりとした。しかし、当日の対談では、失礼ながら、共通点を見出す事も出来た。
新聞は、読者のナゼ?に答えて、「ためになり、わかりやすく、面白く」なければならないという。
「講釈師は、単なる芸人ではない。天下の御記録読みという気概を持て」と、時の総理と互角に渡り合っていたという五代目馬琴先生。一方で、「講談は大衆演芸、面白くなければダメ」と言っていた亡き師匠一鶴。若輩ながら、私は、そのどちらも、講談という芸や、講談師の立場を言い得ていると思うし、そうありたいと思っている。
「ためになり・わかりやすく・面白い」私の目指す講釈もそこにある。政治記者歴五十余年。裏も表も知り尽くした五郎さんならではの歴代総理の逸話も期待通りだったが、五郎さんご自身からにじみ出る人情味と、テンポのよい話ぶりに、私も、客席も聞き入ってしまった。
おかげで、直後の私の「高野長英伝」も、調子よく一席を終えるに至ったのは言うまでもない。
子供のころから数えて40年節目の会を、東京初舞台の思い出の寄席で、大好きな仲間達と、いっぱいのお客様を迎えて開催することが叶った。
当代随一の書き手であり、話し手でもある五郎さんが出演を快諾下さったのも、私が講談師であったればこそ。
自分が講談師である事の喜びを、久しぶりに実感した夜だった。

田辺鶴遊(たなべかくゆう)

講談師。芸能社経営の父のもと、2歳から芸能活動。8歳で田辺一鶴に師事。芸名「田辺チビ鶴」。東海大学大学院中退後、講談協会にて前座修業。平成21年、師匠没後に宝井琴梅門下。平成27年真打昇進し、「田辺鶴遊」を襲名。

<出演予定>問い合わせ 03-3681-9976(みのるプロ)

◎1月15日深夜25時台(16日午前1時)~ NHKラジオ第一「ラジオ深夜便」演芸百選、田辺鶴遊「後藤新平伝」他。解説・神田松鯉(人間国宝)

◎1月28日13時~ 「復活!東京ニューヨーク寄席」江戸川区・第二寿湯、無料