KIRACO(きらこ)

我が家の裏庭には、ちょっとした花壇があって、毎年夏になると私よりはるかに背の高い大輪のひまわりが一斉に花開いて目を楽しませてくれます。

別に種まきをするわけではなく、前の年に落ちこぼれたタネが自然に芽生えてくれるのです。

それを適当に移植して、真夏の灼熱の時期を待つ…というのが例年の慣いでした。

植物というのは季節の気配をいち早く察知して、それぞれ何らかの変化を見せ始めるもの。例えば早春の雪柳。

枯れ果てて、もうこの木はダメになったのかと思わせるくらいの枝なのに、目をこらしてよくよく見ると胡麻粒ほどの新芽がギッシリ。

毎年そうした光景を見ながら自然の摂理の確かさに、頭の下がる思いで過ごしてきました。

それは人間の身体も同じ事、どんなに逆らってみても刻一刻変・ ・ ・ 化?いえ、劣・ ・・化してゆく我が身。

例えば昨日までは何にも掴まらずにヒョイと片足立ちして穿けていたスラックスが、今朝はふらついてオットットォ…!何回挑戦してもダメなのです。《これはもう、自然のことなんだから》と苦笑するこ日常茶飯の昨今になってしまいました。

そう、自然の流れには植物も動物も身を任せるしかない!

ところが昨年の秋の終わり頃、冷たい風に身をすくめながら薔薇を剪定していた時のこと、庭の片隅になにやら、愛らしい苗が十数本も生え揃っているのが目にとまりました。

なんとそれはあの《ひまわり》ではありませんか!《ええっ!あなたたち、一体どうするつもりなの?これから冬なんだよ!所詮生きられないんだよ。》

それでも可哀想に思えて、裏庭に肩寄せあってヒョロヒョロ伸びている苗木を二,三本ずつ植木鉢に移し植えたのです。

日当たりのいい玄関先に並べてはみたものの、どう考えてもこれから真冬に向かう時期、育つワケはありません。

しかも昨年から今年にかけての幾度とない大寒波の襲来。

あまりの寒さに庭仕事どころでなく、引きこもりの日常が過ぎて行きました。

それでも時折り、郵便受けを開くついでに、鉢植えのひまわり達に目をやってはいましたが、当然のことながら茎も葉もトロけてしまって無残な骸が残されているだけ。

もう諦めるほかない、と、半ば忘れかけていた矢先、なんと私の部屋の窓下に置いた一鉢の中の一本が、三十センチにも満たない高さで立っていて、弱々しい葉を北風にそよがせているではありませんか!二月半ばの凍りつくような寒さの中で、です。

年を越してここまで頑張ったその生命力…大自然のルールに逆らってでも生きようとするその意志?に胸が熱くなって、それからは毎朝祈るような気持ちで眺めていました。

そしてようやく訪れた春三月。

しかし寒波は情け容赦ナシの波状攻撃でした。

ところがそんな中、《ええっ!まさか?》と叫びたいほどの光景が。

なんと!小さな蕾を付けているではありませんか。

氷雨の中、弱々しいながらも、健気にそして誇らしげに立つ季節はずれの小さなひまわり。

天晴れとしか言いようのない、強烈なエネルギーに心底胸を打たれました。そして思ったのです。

もしかしてこれは今の私への応援メッセージなのではないか?と。

この六月、私は九十歳という老齢に逆らって、生涯初めての《逆さ歌ライブ》に挑戦する事になっています。

長年のユメだったナマ演奏。

確かにそれは私にとって《大願成就》といいたいほどの喜びであるはずです。でも、期日が迫るにつれ私の中に潜む弱気の虫の囁きが…。
《お客様、来て下さるかしら?》
《こんなおばあさんの歌なんか興味持って聴いて貰えるかしら…》などなど。

でも背筋を伸ばして毅然と立つひまわりを見ていると、何とも言えない力を貰える気がして、お互い花開くその日を待つ… 今やそんな心境の私たち。

当日流れるはずの、《逆回転アメイジング・グレイス》。その《裏側の神秘的な旋律》を是非とも皆さんに、聴いて頂きたいのです。

《写真は入稿直後に咲いたひまわりの映像》