KIRACO(きらこ)

Vol156 かくゆう私の「旅」日記

2022年7月14日

一鶴遺産

相撲甚句の名手で、ワイドショーのコメンテーターとしておなじみ、元幕内力士の大至氏と、5月28日に開催予定だった二人会。三日前に大至さんから発熱の連絡。やむなく「田辺鶴遊緊急講談会」を開催する事に。すでに予約を頂いていたお客様全員に、お詫びと変更の連絡で大わらわ。会場のタンゴソル日本橋も、大至さんの同級生が経営するホールで、私自身は一度も出演した事がない。しかし、長い芸能人生、こんなハプニングもままあるだろうと心を落ち着かせて会場入り。持つべきものは友達で、浪曲の東家一太郎夫妻が急遽、助演を引き受けてくれた。有り難いのは、内容の変更にも関わらず、快く駆けつけてくださったお客様方。おかげ様にて大入り、何とか形にすることが出来た。

一太郎さんは、師匠の東家浦太郎先生(松戸在住だった)を亡くしたばかり。先生が、長年浪曲会を開かれていた葛飾区金町・島村会館でのお通夜に参列。私が前座の頃から、島村会館の他、各地の演芸会など何かと面倒を見て頂いたのは、先生と、亡き師匠・一鶴との付き合いがあったからだろう。焼香の順番を待ちながら、亡き師が、浦太郎師との旅の思い出を語ってくれた事を思い出した。芸界では、地方の仕事を「旅」というが、私も、一太郎さんや気の合う仲間たちと、たくさんの旅に出たいものと思う。

5月15日、静岡県沼津市での江原素六生誕180年記念式典で「沼津と江原素六」という新作を発表。江原先生に思い入れのある、川勝平太知事とも再会。直後に銅像の除幕式が。知事挨拶の中で、拙講談の内容を取り上げて下さったのには恐縮。土屋新一会長を筆頭に、顕彰会の皆様の精力的な活動に頭が下がる思い。「私は一会員だけど、講談良かったわ」と、ご婦人からの声に感激ひとしお。江原先生が創設した麻布学園の平秀明校長とも、その場で名刺交換。「いつでもいらして下さい」と嬉しい一言。ご挨拶が叶わなかったのは、佐倉の国立歴史民族博物館の樋口雄彦教授。以前は、江原素六記念館の学芸員で、樋口先生が書かれた記事や著作を、講談創作の過程で大いに参考にしていた。後日お便りをすると、ご多忙の中メールを頂戴した。近々、麻布学園と佐倉へも勉強に伺わねばと考えている。

市川・船橋戦争では、中山の法華経寺に陣を張った江原素六。重傷を負った素六を匿ったのが、船橋・山野村の人々。取材の為、同地区を再訪。素六を助けた名主の子孫、石井秋弘山野町会副会長と、郷土史に詳しい新川博先生、世話人の佐藤百代さんのご案内。佐藤さんは、本誌の井手編集長とも知り合いと聞き、ご縁を感じている。今の山野幼稚園の辺りは、かつて石井家の土地で、どんぐり山と呼ばれた鬱蒼としたところに崖があり、そこに横穴を掘り、素六の身を隠したという。まさにその場所を訪れた。また、素六に食べ物を運んだであろう藤田勘左衛門の子孫が営む「ミラベル」という地元で人気のレストランでは、お肉に舌鼓。当日は「千葉笑い」担当の、佐々木健朝日新聞京葉支局長が同行。5月31日付けの千葉版に六段抜きで掲載されるや、私が出演する、6月15日の江原素六顕彰の集い(葛飾公民館)は、予約の電話が殺到、回線はパンク寸前だったとか。

司馬遼太郎『胡蝶の夢』には、佐倉順天堂を開設した佐藤泰然の息子で、陸軍軍医総監を務めた松本良順が、幕府の医官時代に出会った素六に、消毒法など傷の手当てを教えたという場面があり、これが山野の潜伏生活で役立ったのだという。その良順が暮らし、永久の眠りについた神奈川県大磯町を訪問。彼が当地での海水浴を奨励した事で、明治以来、政財界の大物はこぞって大磯に別荘を構えた。以前も書いたが、後藤新平による海水浴紹介は、良順より少し前だが、後藤の師匠ともいうべき司馬凌海は、佐倉で学び、良順に師事していたなどの関わりがあり、彼の功績は否定されない。伊藤博文、吉田茂と並ぶ〝大磯の顔〟の一人で、海岸には、一際大きな良順先生謝恩碑がそびえ建つ。維新の元勲らの豪邸と比べ、質素そのものだったのが島崎藤村旧宅。藤村夫妻の墓は近くの地福寺に。十年ほど前、藤村先生の故郷、木曽の馬籠で藤村伝を口演したが、今回初めてお参りをさせて頂いた。ほど近い場所には、同じく大磯で最期を迎えた、新島襄先生の記念碑もあった。

6月の第一週は関西へ。恥ずかしながら、私はこの年齢になるまで、一度も広島を訪れたことが無かった。資料館など平和記念公園や、市内のいくつかの被爆建物に被爆樹木、千田廟公園から頼山陽の関連施設、広島城や臨時帝国議会の跡などは、市電や徒歩で見て回った。以前、船上で講談一席を伺うという、都内の仕事でお世話になった金平京子さんが、今は、爆心地近くのおりづるタワーの館長に就任。館内を案内下さった。ここからは、原爆ドームや、広島の中心部を、高い位置から眺める事が可能。遠くは、沖に浮かぶ似島まで望めた。

宇品ターミナルからフェリーで二十分の似島は、貸し自転車で一周。明治二十七年の日清戦争。大陸からの帰還将兵の検疫事業の最前線がここ似島で、采配を振るったのが後藤新平。現在の似島学園敷地内には、後藤の銅像がある。明治期の軍用桟橋、検疫所の煙突、原爆で亡くなった方々を焼いた焼却炉跡など、島内には戦争遺構が点在するが、花と緑と青空と、波音だけが聞こえくる、静かな浜辺を見ていると、平和の尊さを考えずにはいられなかった。

宇品港へ帰ると、元宇品地区へ。観音寺には双葉山の七十連勝を阻んだ安芸ノ海のお墓が。市川市中山に住まいした演芸評論家で、「千葉笑い」の創始者の小島貞二先生は元力士。当時は安芸ノ海の付き人として、この歴史的一番を間近で目撃した。小島貞二作「双葉山七十連勝ならず」で演芸選奨を受賞したのが田辺一鶴。いずれ、亡き師匠の代表作に挑戦をしたい。

中心部へ戻った時には腹はペコペコ。「お食事処ふじ」の暖簾をくぐれば、一見の客にもお優しいママとご常連が。心づくしのおかずとイカの刺身に杯を重ねて、再会をお約束した。

大師匠の十二代田辺南鶴は、江原素六などキリスト教の偉人伝を創作するうちに受洗。新島襄の一席では、同志社から表彰を受けたという。私は、けっして表彰が目的ではないのだが、「新島襄伝」をというご依頼が。函館は、新島先生が若き日、海外密航をした土地で、その函館公演で読むなど、以前から新島伝は演じていたが、今回は台本を練り直し、再挑戦をするべく京都まで。同志社大学内の資料館や先生の旧宅も見学。しかし、驚いたというのは同志社墓地。大学からだいぶ離れた若王子という地区で、険しい山道を二十分以上登ってやっとたどり着く。正面には新島襄・八重夫妻と新島家の墓石が並ぶが、左端に見つけたのが、山崎為徳のお墓。山崎は奥州水沢の産、後藤新平・斎藤実とは幼なじみで、後に水沢の三秀才に数えられた。開校以来同志社に学び、新島先生の信頼厚く、在学中から教育にも携わったが二十四歳の若さで亡くなった。この墓石は、友人一同で建てたと側面に刻まれている。遺髪を納めたという水沢のお墓はお参りしていたが、図らずも、今回墓参が叶った。隣には、これも後藤と交流のあった徳富蘇峰が眠っている。講談に登場する人物どうしの繋がり、歴史を題材にする面白さを実感した。市内を歩くうち、本能寺に行き当たり、信長公にも合掌。これまで散々、メシの種にさせて頂いた事に感謝。伏見・大黒寺には、これも私が最近口演をしている「宝暦治水・薩摩義士伝」の主人公、平田靭負の墓があり、こちらにも手を合わせた。講談師は外へ出歩かなければダメ。そこには、新たな「旅」へのきっかけがある。他人の売り物の何が面白い、売り物は自分自身で作り上げるのだ。

田辺鶴遊(たなべかくゆう)

講談師。2歳から芸能活動。8歳で田辺一鶴に師事。師匠没後は宝井琴梅門下。平成27年真打昇進。朝日新聞千葉版の笑文芸欄「千葉笑い」選者。日本テレビ「ニュースエブリ-」特集のナレーションを不定期で担当。古典の他、「後藤新平」「斎藤実」「徳三宝」「遠藤実」など創作講談がライフワーク。

<出演情報>問い合わせ先…03-3681-9976(みのるプロ)

◎7月5日、15時半~「後藤新平シンポジウム」座・高円寺2、3000円、鶴遊「後藤新平伝」、橋本五郎(読売新聞特別編集委員)、片山善博(元総務相)他

◎7月14日、13時~「東京ニューヨーク寄席」江戸川区平井・吉野湯、無料

◎7月25日、18時半~「第二回貞橘・春陽・鶴遊の会」お江戸両国亭、2500円