KIRACO(きらこ)

梅雨に入ったのだろうか?

今日も朝からこまかい雨が降っている。

私はぼんやり、窓の外を眺めていた。

ぼんやりというより、何かを考えるという事は一切できなかった。頭の中を占めているのは、悲しみと後悔だった。実は、今朝、友人からの電話があり長い間、可愛がっていただいていた方、館山の酒井宮司の訃報の連絡であった。酒井宮司には、本当に私が若い頃からのお知り合いといえる。私は若い頃、東京で割烹店やクラブ等を経営していた。両親は大反対であったが、私は頑固に絶対やめないからと言い切り、一生懸命毎日働き続けていた。父や母は少し応援してやろうという気持ちを持ち始めたのだろう、何人かの方に、「家の外れ娘が、東京で店をやっていますのでどうか、東京での会合がございましたら、是非、娘の店を使って下さい。お願いします。」という手紙を送ったらしい。何人かの国会議員の方が来て下さった。当時大蔵大臣をしていらした水田三喜男先生はじめ始関伊平先生や染谷誠先生、菅野儀作先生などなど。

割烹店は八丁堀にあった。菅野先生は店の三部屋しかない座敷の一つを年間で借り上げて頂いた。そして、菅野先生の秘書をされていたのが酒井宮司だったのです。酒井宮司は毎週月曜日になると、「先週いくら?」とお勘定をお支払いに来て下さった。菅野先生がお亡くなりなるまで、それは続いたのだった。だけど、酒井宮司は、いつも、清算をされるだけで、私の店の座敷に上がることも、ビール一本もお飲みなることはなかった。お支払いを済ませるとすぐに速足で帰って行かれた。銀座店のクラブの方は、浜田幸一先生もよくお顔を見せて下さった。そんな皆様方のご支援もあって、私は、店をやり遂げることが出来たのだった。まったく何の経験も無く飛び込んだ世界だったものの、商売するのが好きだったのかも知れない。そして軽井沢や新宿や日本橋にも店を出すようになっていった。

忙しい毎日だった。寝る間を惜しんで働く私の姿に父も母もびっくりしたらしい。もともと、私の家は市原市と東京の中野区両方にあった。父も母もどちらかと言えば、市原にいる方が多かった。とても堅い家で、娘が水商売に入るなどと、思ってもいなかっただろう。私は自分でも信じられない位商売にのめり込んでいった。反対しながらも、開店資金等、文句も言わず出してくれる両親に対しても、頑張っていかなければという思いが強くなっていくと共に、私に責任感みたいなものを植えつけてくれた。菅野先生はそんな私に「お父さんもお母さんも反対しながらも心の中では、応援しているんだよ。始めてしまったのだから、努力して成功させなきゃね」と励まして下さった。酒井宮司は、時たま時間が少しあると、ちょっとの、ほんのわずかな時間だけど、カウンターに腰かけて、日本茶一杯だけ飲んで下さる時があった。四〇才ちょっとこえておいでだったのだろうか?

きびきびした動作を持ち明るい方、少しも威張らなかった。そのせいだろう、店の従業員にもたいへん好かれていた。特に仲居頭のお秋さんは、一番の酒井さんファンで、「ぜひ、時間を作って、一度ゆっくり飲みに来てください。お茶じゃなく、お酒を。私が大サービスしますから。」と、熱心に話しかけていた。何事にも点がからく、きびしいお秋さんが、そこまで言うなんて、本当に珍しい話しだった。それだけ酒井さんのお人柄がよかったのだろう。しかし、菅野先生が病気になり、他界されてしまったのは、それから二年後位たった秋だった。本当に残念で悲しい事だった。今でも当時のことを思い出す度、悲しくなる。

酒井宮司とも、お会いできなくなり、月日は流れて行った。そして二〇年近くたった時私は、七店まで増えていた店全てを処分して千葉に移り住んだ。結婚したのだった。そして、私は酒井さんと再会したのだった。その時初めて、酒井さんが館山にあるある大きなお宮の宮司さんだと知ったのだった。それからは、一挙に親しさが増し、お宮のお祭りに呼んで頂いたり、時々お電話でお話ししたり、大の仲良しになった。お亡くなりになるなんて、思いもしなかったので、今は寂しさを心いっぱい感じている。