夏が去り、樹々が色づき葉を落とす頃になると、喜怒哀楽の揺れ幅も小さくなる。秋しゅうりん霖に沈んだ景色に身をおくと自然に物思いに耽るようになる。秋の彼岸もドイツの万霊節もそんな心に寄り添い生まれた風習なのだろう。2020 年9月に88歳で帰天された母校の名誉教授、カトリック司祭アルフォンス・デーケン先生は「死を以って生を考える」という「死生学」の世界的権威であり、その哲学を日本に深く広められた。忘れもしない先生の講義。「あなたが余命幾いくば許く もない、と宣告されたら、何を思いどうするか」というテーマで作文せよ、という課題を出された。翌週の講義の冒頭で先生は言われた。「皆、自分のことのみで心が一杯。100人以上いる中でただの一人も「遺されるもの」を思い遣った人のいなかったことを、遺憾に思います」。あのときの、熱い氷の剣で突かれたような痛みは今でも心に刺さったままだ。二十歳前後の若さでは…は言い訳にならない、そう感じた。
アヤさんは着付けの先生だ。まだ母が元気だった頃、ある日突然思い至った。私が着なければ、祖母の、そして母の着物もいつか、ただの古着古布とされ処分の憂き目に遭うだろう。祖母は高齢になるまで和服で過ごした人だった。母も普段にもよく着こなした。私も一通りの知識はもち、不格好でも自分で着ることはできた。が、それで堂々と人前に出られるかというと、さにあらず。そこで一念発起して基礎からきっちり習おうと決意した。看板も何かの役に立つだろう。師範課程でお世話になったのがアヤさんだった。
私より遥かにお若い、小柄でキビキビとした方で、声が優しい。何よりも所作の美しさ、そして思わず見惚れた手指の動きの優美さ。絹物を扱うために生まれて来ました、という風情に見えた。本科、師範科と進級すると個人教授になる。稽古の合間のお喋りも楽しい。自然に家族のこと、日々の暮らしのことなど話すようになる。
アヤさんは解いた着物を使ってのリフォーム教室もやっていた。ファミリーサポートのボランティアも積極的に何軒も引き受け八面六臂の活躍、なんでも器用にこなす方だ。それでも自分は社会に対し充分貢献できていない気がする、と言う。
ある日、クーラーいっぱいの大量の魚を一日がかりで捌いた、と笑いながら言う。「義姉が友人の釣りに同行して釣果を貰って来た」結果、アヤさんに後始末のお鉢が回って来たそうだ。今時それは凄いと言うと「父が早く亡くなり、母の手伝いをして、何でもしなければいけないうちにできるようになっただけ」と笑顔で言う。しなければいけないことでも、しない人間はいくらでもいる。恵まれ過ぎるとしたくないことはしない、できないのは環境が悪い、と責任転嫁するものが多い中、頭が下がる。伝える言葉を探すうち、アヤさんの一言が心に直接飛び込んできた。
「でも、お父さんが一番可哀想。あんなに若かったのに。幼い子供を置いて逝かなくちゃいけなくて。きっと辛かっただろうと思う…」探していたありきたりの言葉が消えてしまった。滲んでくる涙を抑えるのに苦労した。着物に涙を零すわけにはいかない。
哀しみが深いほど、人は優しくなれるのだろう。これほどの哀しみと愛しさ、本当の慈しみを湛えた言葉を耳にしたことがなかった。
嗚呼、そうだ、あの温かさ。黒目がちの大きな瞳のアヤさんの美しさは、その心情と相あ いま 俟って棟方志功の菩薩の姿を彷彿とさせるのだ。アヤさんの笑みを湛えた瞳を忘れなければ大丈夫、と心の裡呟いている。そしてデーケン先生の戒めを、そのとき感じた痛みを忘れない限り、人として赦されるのは、という縋るような願いを持ち続けている。
パンドラの匣はこの底に残された希望のように。