KIRACO(きらこ)

講談師、初夏の旅

2024年9月12日

一鶴遺産

5月25日から四年ぶりの北海道巡業。札幌・旭川・函館で計6公演。旭川市倫理法人会では、後藤新平と旭川の関わりを講演したが、朝六時開始というのには驚いた。前日は、市内の旧岡田邸「おかだ紅雪庭」(髙橋富士子社長)で講談会。打ち上げで小室泰規さんが「明日送ってあげるよ」と嬉しいお声掛け。小室さんは、北海道新聞旭川支社在職中からのご常連。いつもこだわりのお着物で、後方から静かに耳を傾けて下さっている。退職後は札幌にお住まいだが、車で駆けつけてくれた。「石狩に寄りたいのですが」「いいよ」と、おしゃれな車で三時間ばかり。石狩は、出島松造のゆかりの地だ。松造は、十六歳で米国に密航し九年間滞在。明治元年、新政府の通訳に採用。同5年から北海道開拓使へ。横浜の我が国初のアイスクリームも松造が製造方法を伝えたという。松造の父・出島竹斎は、静岡の久能山東照宮宮司で、明治期に活躍。私が育った静岡市南部を詠んだ歌を多く残した。竹斎の墓は、市内小鹿の我が家の墓と同じ墓地にあり、関心を持った。久能山東照宮では、家康の命日に尾張徳川家や宗家の前で一席伺うなどご縁があり、昨年は、竹斎が守った家康遺愛の宝物のうち、「家康の洋時計の由来」を国立演芸場で口演。創作には、落合偉洲名誉宮司もご協力下さった。出島父子についてもいずれ講談化してみたいものと、石狩へ。

明治10年10月開業の日本初の缶詰製造所「石狩缶詰所」でも松造は通訳を。その一年前にも、かのクラーク博士とともに石狩でサケ缶の試作をしたという。また、その四ヶ月前の明治9年6月には、ハマナスの花を摘み、自ら海外から持ち込んだ蒸留機で、香水の試験製造も行っていた。松造がハマナスを摘んだのは、現在の「はまなすの丘公園」。映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台、石狩灯台を右手に遊歩道を進むと、石狩川河口と海に挟まれた湿地帯が。時期は早いが、ハマナスの花がちらほらと。松造が見たであろう景色が目の前に広がる。「いしかり砂丘の風資料館」では缶詰め体験も。いただいた地図を手に、辺りの史跡も巡った。松造の居た缶詰所の跡が、宿泊した民宿の目の前だったのは嬉しかった。

函館公演の前に立ち寄った八雲町は、旧尾張藩士が開拓した。尾張藩士の子孫、太田新生さんと再会。以前太田さんには、町内の藩士ゆかりの史跡をご案内頂いた。まずは駅前の喫茶ホーラクで一服。店内には、北海道名物の木彫り熊がズラリ。熊作りは、尾張の当主、徳川義親が、農閑期の副業にと八雲の人々に伝えたのが始まりで、今年はちょうど百年の節目。熊彫り名人の、その名も小熊秀雄さんの工房へ。名古屋生まれの私、先達の思いに近づきたいものと、熊彫りに挑戦。三時間程で完成した私の熊を見た小熊先生、「新しいタイプの熊だね」とぽつり。晩には、太田さんの娘さんが嫁いだ「銀婚湯」へ。野趣に富んだ外湯を巡り、明治の先人達に思いを馳せた。3月に登った愛知の小牧山には義親の銅像が。尾張家の所有を開放、ここでも市民の尊敬を集める。虎狩りの殿様という異名や、名古屋市長選の落選など、興味深い生涯。徳川義親と木彫り熊、八雲の歴史は、講談で取り上げてみたい。

後藤新平の麻布の屋敷には、新平の没後、一時期、尾張徳川家が入っている。義親と新平の関係も気になるところ。函館公演二日目は、私の定宿、湯の川温泉の大黒屋旅館にて。湯の川の開発は、内務省衛生局長だった新平の助言もあったという。ここでも新平伝を一席。翌日は青森へ渡り、大鰐温泉のヤマニ仙遊館へ。食堂には、かつて宿泊した新平の書が掲げてある。「後藤伯の部屋はどこです?」「あなたのお部屋です」偶然、同じ部屋に泊まる事が叶った。当主の菊池啓介さんは後藤新平記念館で、新平が宿泊当日の記録を写してもらっていて、見ると、日付けが大正2年6月4日。私が泊まったのも6月4日。またもや偶然の一致に感激。窓を開けると、新平も聞いたであろう平川の川音が聞こえてきた。

7月13 日は名古屋。ブックショップマイタウンの舟橋武志社長のお別れ会で一席。名古屋関連の本を多数出版、ご教示頂きたい事がまだまだたくさんあった。生前社長に、きらこの文章を褒めて頂いた事が、何より誇らしい。奥様・美由紀さんの心遣いに恐縮。会の終了後、中区栄三丁目の東文堂書店へ。ここの二階が東証一部上場企業「メイテック」創業の地。同社の五十周年記念講談をというご依頼。薄暗い階段を上がると、今は二階も古書でいっぱい。おかみさん曰く「よくわからない会社だったわ」。当時、技術者を企業に送るという業態は、他に無い発想だった。「講談といえば昔、ヒゲの一鶴さんがよく来てたわよ」。創業の地は、亡き師匠ゆかりの地でもあった。7月20日、東京ビッグサイトに関係者約五千人が集結。式典の冒頭に五十年の歩みを披露。久々に刺激的な現場だった。

田辺鶴遊(たなべかくゆう)
名古屋生まれ静岡育ちの講談家。2歳から芸能活動。8歳で講談・田辺一鶴に師事、「田辺チビ鶴」の芸名で話題に。東海大大学院中退後、講談協会にて前座修業。平成21年、師匠没後は宝井琴梅門下。同27年真打昇進し「田辺鶴遊」を襲名。朝日新聞千葉版の読者投稿笑文芸欄「千葉笑い」選者。日テレ「ニュースエブリー」特集コーナーのナレーションが好評。NHKラジオ深夜便で放送された後藤新平、新島襄の他、江原素六、豊竹呂昇、徳三宝など幕末・明治以降の人物伝、古典・新作を問わず、膨大な資料収集と丁寧な取材に基づく講談の創作がライフワーク。現在、尾崎咢堂伝、中勘助物語を制作中。