KIRACO(きらこ)

これまでの長い人生、本当にいろいろなことがありました。

でもさすがにこの歳です。この先はもはや、そうそう大きな変化は起こりようはずもありません。

ここから先は、ただ静かに幕の降りるのを待つだけ、そう思っていました。

処が…つい先日、突然スマホにかかってきた一本の電話。

もう十年近くも音信の無かった、バリトン歌手の大先生からでした。

以前…といってももうずいぶん前になりますが、その先生のリサイタルにお招きを頂き、素晴らしいオペラのアリアの数々を聴かせて頂いた事がありました。

その後、暫くは連絡を交わしていたのですけれど、お忙しい先生でいらっしゃるし、私は私で当時は逆さ歌がらみのテレビの出番が続いていたり、しかもコロナの到来です。ついお互い疎遠になっていました。

で、そのお電話なのですが…

かいつまんで話しますと、先生は普段からご自分の演奏活動以外にも、且ての戦争が遺した様々な悲劇…それも子供たちに纏わるお話とか、それらを後世に伝える義務を日頃から深く感じておいでだったのだそうです。

その為、色々な資料を集め、それを基に長い時間かけて「中国残留孤児」に纏わるオペラ〝命を繋いでくれた人〟を製作、それを若い学生たちに演じて貰ったのだとか。

昨年それが台湾で上演されることとなり、その舞台を撮ったDVDも完成。まだお若くていらっしゃる先生はこれで満足することなく、次作に向けての意欲に燃えておいでだという事なのです。

たまたま先月、靖国神社の《特攻慰霊祭》にご出席。その会でお世話になった係りの女性とお話ししているうち、私、中田芳子が十五年くらい前に出版した《十四歳の夏》という本が話題に上り、そこで先生の脳裏にひらめいたのが、次のオペラプロジェクトの題材なのでした。

その後暫くして、お二人で我が家を訪ねて下さいました。

私が九十三歳という、高齢者であることも重々ご承知の上で、このお話しをもってきて下さったことに私は驚きを禁じ得ませんでした。

それは単なる嬉しさだけではなく、そこに一種の運命のようなものを感じ取ったからなのです。

実はこの一月、私は生まれ故郷台湾を訪れ、暫く滞在しました。久々に懐かしい友人に会ったり、思い出の地へ足を延ばしたり、果ては乞われるままに講演会に出て話したり、ついでに逆さ歌のライブまでやらかすという長丁場の行動を重ねてしまったのです。

でもこの歳です。まさに限界だったのでしょう。いきなり重症の肺炎に!

そのままダウンしてしまいました。

なんとその後、四~五日間、人事不省に陥ったのです。あとで知ったのですが、主治医はじめ医療スタッフは勿論のこと、我が息子までが、もうこれでオシマイだと覚悟をきめていたそうなのです。

《私自身がその頃、どんな世界を彷徨(さまよ)い、すさまじい幻聴幻覚に振り回されていたか…是非、次回のこのエッセイの題材にさせて頂きたいと思っています。》

それが何故か、まさに奇跡の生還!

とにかく不思議でならないのです。

《何故私、生き返ることが出来たのだろう?》

あの瀕死状態の苦しかった日々。

それが解放されてこうして普通に歩き回っている今のこの私。今でも不思議でなりません。

若しかしたら、今度の大きなプロジェクトに取り組むことで、あの悲惨だった戦争の記憶を改めて掘り起こし、戦火を交えることの悲惨さ、愚かしさを改めて今の世に問う、そうしたミッションを今、自分は背負わされているのではないか?

そこまで想わずにはいられないのです。

先日も報道されていたロシア機の日本領空侵犯。中国での日本人小学生の殺害事件。本当に一触即発にもなりかねない事態があとを絶ちません。

でも戦争は絶対にやってはならない!

そんな思いを込めプロジェクト完成の日まで、一歩一歩歩み続けるつもりです。

嬉しいことに、製作にあたっての構成とか、シナリオ・作詞に至るまで、この私にも少しお手伝いさせて頂けるとか。

奇跡的に生き返れた、その意味を今こそ噛みしめながら、残り少ない月日を最大限に生かしていきたいと心から願っています。

皆さん、応援して下さいね!