KIRACO(きらこ)

彼岸花が美しく咲いている。

私は、この花が大好きで、道端に咲いていた彼岸花を儀ちゃん(亡夫)にせがんで、我が家の裏に植えてもらったことがあった。儀ちゃんは、「この花は庭に植えるものじゃないんだが・・・」と言いながらも、スコップで植えてくれたっけ。あれからもう十数年余り。私が手入れをしないので、我が家の彼岸花はいつしか咲かなくなってしまった。

私は四人弟妹、妹は、十年前に他界しているので今は弟が二人だけだ。父は早く亡くなり、母は九十九才まで健在だったが、転んだのが原因で亡くなってしまった。上の弟の嫁も去年突然他界してしまったので、本当に今は淋しい。特に妹は仲が良かったので時々思い出してしまう。私とまったく性格が違っていたせいか喧嘩もしたが、すぐ仲直りしていた。妹は小さい頃から、きれいだ、可愛いと皆から褒められていた。でも、洋服でも着物でも、自分が気に入らないと絶対に着なかった。将来は画家になると言い、小学校へ入学と同時に油絵を習い始めた。母の考えで、英会話の先生に来ていただき、子供全員で習っていたのだが、私はサボってばかりいたので、まるでだめだったが、妹は小学校卒業の頃は、いっぱし、英語で会話ができた。油絵もずっと続けていたが、中学生になると、焼物にも興味を示し、休日は陶芸教室にも通っていた。当時、私と上の弟と妹三人は市原の実家から離れ東京で暮らしていた。お手伝いさん二人と書生さんがいたので淋しさを感じた思い出はない。両親は子供に対しての教育方針をそれなりに持っていたのであろう、東京の住まいからも越境の小学校に転入して通っていた。

私が四年生まで通った市原の小学校へは家から四キロの道のり。少しもつらくなかったし、帰り道などは季節めぐる度に、野原に咲いている花を摘んだり、小川に入って川魚を捕まえたりして道草ばかりしていた。同じ地域から通う友達とは、いつも仲良しで、道草も楽しかった。

私はガキ大将だったそうだ。自分では、むしろ、静かに本ばかり読んでいるおとなしい優等生だと信じていた。だけど、四十を迎えるころ、初めて市原の小学校の同窓会に招待されたので、なつかしさに喜んで出席した。

自分もそうだが、結構皆いい小父さんや小母さんになっていた。皆どこかに幼顔が残っているので、誰かすぐわかった。会わなかった間のことは、すぐにどこかに飛んで行き、みんな小学生に戻ってしまい、仲良く、楽しい昔話に花が咲いた。正確に言えば私は小学校四年生の二学期までしか市原の奥にあった平三小学校には在籍していなったのだが、誰一人そんな事は言はず、ヨーコちゃん、ヨーコちゃんといろんな話をしてくれた。

そんな中の一人、一番仲良しだった鈴子さんという名の友達が『ねえヨーコちゃん、ヨーコちゃんが大将になって裏の原っぱで、学校中の生徒集めて二派に別れて戦わせたこと覚えているでしょ。みんな竹を切ったのや棒切れ持ってスゴイ戦いをやったんだよ。ヨーコちゃんは、大声で「それ攻めろ!」とか「やっつけろ!」、と皆に指図して、皆夢中になって戦って。先生方、全員飛び出して来たんだけど、あまりの騒ぎに、皆しばらく呆然としてたんだよ』鈴子さんの言葉に私はビックリして「やだあ、私はさ、おとなしい優等生だった筈なんだけど」「いやだなあ、忘れちゃったの、私たち全員、二時間も立たされたんだよ」私は男子同級生に「ねえ、そんな事私やった?」と聞いた。「やったよ。スゴイ騒ぎだったもの」私は、なんとも、納得がいかず、「あの、何が原因で私、そんな騒ぎを起こしたのかしら」と言った。『別に、ヨーコちゃんが悪いわけじゃないの。だけど、ヨーコちゃん、四年生になった頃は、なんとなく六年生までがヨーコちゃんの手下みたいになってたのよ。そして、上級生までが意地悪する人がいるので、何とかしてとか、何でも言い付けて、どうしたら仕返しできるかなんて、あなたに相談に行くようになったのよ。そんな事はたくさんあったのでヨーコちゃんは、「陰でそんな事ばかり言ってたってしょうがないよ。そんなに意地悪する人がいるなら、陰で言い合っていないで、堂々と喧嘩し合って、白黒つけるしかないよ」そう言って、集まってきた全員に「どっちでもいい。自分の思っている方が正しいと思う方について、二派に別れて喧嘩するのがいいよ。勝っても負けても思いっきり不満を相手にぶつけてしまえば両方ともすっきりすると思うよ。さあ、皆やってみなよ」と全員をけしかけただけ』

鈴子さんがしゃべっているのを聞いているうちに、私も段々とあの時の記憶が戻ってきた。私は人の悪口、告げ口、そんなことをしてはいけない。言いたいことを相手にしっかりと伝えれば、必ず、気持ちは通じる。そして困っている人を見たら、まず助けることを考えなさい。そんな教えを祖母、父、母から常に教えられていた。

両親は、私と長男に対して、強い教育方針等持っていたのであろう。だから、私は勉強はいつも一番でなければならない。運動も一番でなければならないと常に思っていた。弟はいずれは父の後を継ぎ、家を守っていくためのしつけを受けていたようだから、もっと厳しく鍛えられていたかもしれない。そんな私だったから、正義を守り、あのようなバカな騒ぎを起こしたのだろう。時々、同窓会でのこの話を思い出す。そして、あれから何十年も過ぎた今の私は、正義どころか、努力もしないつまんない人間になっちゃてるかもしれないと時々考える。

他の記事を読む