庭の隅で、白梅がそれは美しく咲いている。
紅梅は、植木鉢の中で、咲いていたのを地植えしたのだが、今年は何故か、ほとんどつぼみを付けていない。儀ちゃん(亡夫)が元気なころ、よく地植えをしていた姿を思い出し、一生懸命、水をやってみたのだが、私のやり方が間違っていたのだろう。「ごめんなさい。紅梅さん」私は胸の中でそっとつぶやいた。その後で白梅の前に立ち、「ろくに肥料も水もやらなかったのに、一生懸命咲いてくれてありがとう」と声を出して礼を言った。
友人が二人遊びに来て、白梅を観て、「見事ねえ。小さい枝でいいから、二、三本頂けないかしら? 花瓶に活けて眺めたいの」と言う。私はうれしい気分になりながら、ゆっくり花を見上げた。だが、「ごめん。あれだけ満開になっているから、切る間に花が散ってしまうと思うの」と答えた。友人達は、「そうかなあ・・、残念だなあ。じゃ、来年はきっとね」と言って帰って行った。
庭木や花造りが大好きな弟によく聞いて、肥料のやり方や水やりのタイミング等を教えてもらおうと決めた。儀ちゃんと私の弟は庭仕事が大好きで、仲良くしていた。
私には弟が二人いるが上の弟だ。私とは一つ違い。市原生まれ市原育ちだったが、長男なので父や番頭さんから、幼いころから長男教育をされていたらしい。運動神経が抜群で、小学校一年にならないうちに、自転車や馬にも乗っていた。半面、草や木にも興味を持ち、よく花など植えていたりしていた。
私が四年生、弟が三年生の三学期に私たちは東京の学校へ転校した。それからは、自然との関わりはなくなり、弟は柔道を習いに行かされた。本人も始めてみれば、柔道が好きになったらしく熱心に通い始めた。講道館に入り、毎日休まず通っていた。やがて、中学入学、親の望み通り、明治大学付属中に入った。そして柔道部に入部、部活の稽古が終わってから、講道館に通う。お茶の水から神田だからそんなに遠くはなかったが、結構歩くのはキツイ。講道館へは、土日も夏休みも休まず通っていた。高校、大学と柔道に励んでいるうちに東京オリンピックが近づいてきた。その時から体重制になったので弟は軽量級の候補に選ばれ、合宿所に入っていた。ただ体重オーバーなので、減量には随分と苦労していたらしい。オリンピック本番には、他の候補者が出場したのだった。
大学卒業後、博報堂に入社、張り切っていたが、旧文部省からフランスでの柔道の指導の話があり、休職してフランスへ渡り、三年近く現地で指導を務めた。日本に帰国し会社に復職したが、今度はサウジアラビアへの柔道指導の依頼が来た。会社にはとてもよくして頂いたので、残念だったが退社してサウジアラビアへと渡り、ここでは、十年滞在した。帰国して二年後、今度はアフリカのナイジェリアへいくことになり、奥さんと小学校の男の子も暑いアフリカで三年間過ごした。帰国後やっと落ち着き、日本柔道連盟の事務局長となり今でも柔道界に貢献している。
儀ちゃんは末っ子だったので、二人の弟をとても可愛がってくれた。弟たちも儀ちゃんが大好きで、上の弟はよく柔道の大きな試合に呼んでくれた。それから地方に行くと珍しい木や花を送ってくれた。やがて二人とも仕事を離れたら、二人で庭造りをしようと約束していたのに、二人の望みは叶わなかった。儀ちゃんは死んじゃったけど、弟は儀ちゃんが大切にしていた我が家の櫻の木や牡丹の木等を市原の実家に植え替えようか?なんて電話で言ってきた。うれしいけど、儀ちゃんが天国で悲しむような気がする。
下の弟は競馬界の仕事に従事していたので、よく競馬に招待してくれた。弟に頼んで、お客様や部下を招いたりして、競馬場に行ったこともあった。めったに馬券は当たらないけど、馬の走る姿は、とても美しい。私の楽しみの一つであった。いい弟たちに恵まれたと思う。
でも人生楽しいことばかりじゃない。上の弟の奥さんは亡くなり、下の弟は白血病になってしまった。元気で風邪一つひいたこともないのにビックリだ。
そういう私も白血病を患い一時は三十五キロまで体重が減ってしまったが、お蔭様で今はすっかり治って現在は白血病の薬も飲んでいない。
弟が白血病になったのは驚きしかない。でも、私達には、そのような運命を持って生まれてきたのかも知れないと考えている。幸いにも弟は寝たきりではなく、ひと月の半分を輸血と抗がん剤のために入院して治療している。早く治って、彼の大好きなビフテキを一緒に食べに行きたいなと思っている。
そして、私が知らないうちに、父が創業してくれていた会社「双美」を誰かが継いでくれることを願っている。「双美」の名前の由来だが、私の家は代々男子の名前には「又」と漢数字が必ずついている。父は「又三郎」、上の弟は「又五郎」、下の弟は「又八郎」だ。そして母の名前は美江、父は「又」の下に母の「美」をとって「双美」という会社を創ってくれた。「どうだ、いい名前だろう? 頑張れよ」と言った時の父の笑顔が忘れられない。
人生とは本当におもしろい。儀ちゃんが生きていた時、会社を休眠していたが、儀ちゃんがいなくなってから、休眠から解いた。そして、「ラウンジ夢子」という小さな会員制クラブの経営とイベントの企画・運営を始めた。私も年だから、後何年生きていられるかしら?と、時々考えてしまうけど、何とか双美で働き続けたい。弟二人と仲良くいつまでも幸せでいたいと思いながら、もうすぐ満開となる儀ちゃんが植えたしだれ桜を眺めている私だ。
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