KIRACO(きらこ)

 最近テレビなどで、自分と同じ世代の有名人の訃報を知る機会が多く、何とも言えない侘しさに囚われている私です。

 曽野綾子さんもその一人。

 ショックでした。

 そのキリっとした容姿には何とも言えない気品があって、更にその著書は人をひきつける《静謐》…とでもいいたいような文体の作品が多く、例えば《神の汚れた手》などは当時、すっかり虜になって読み耽ったものでした。

 何と言っても曽野綾子さんが一九三一年生まれ…つまり自分と同じ年齢…という事で、これまでもずっと意識の内にありました。

 お亡くなりになった後、ネットで初めて知ったのですが、文学を通じてのお友達の中には、なんとあの美智子さまがいらして、同じ聖心女学院の先輩後輩ということもあり、ずっと仲良くしておいでだったそうなのです。

 しかもお二人には他に音楽という共通のご趣味もおありになって、皇居でのミニコンサートにも毎回ご出席だったとか。

 ですからこの度の訃報で美智子さまが受けられたお寂しさは察するに余りあるものがあります。

 趣味というものが、どれほど大きな影響を人生に齎すか…人それぞれの宝もの、とも言うべき、持って生まれた人間の感性!

 ですから共通の趣味を持ち、同じことに感動することの出来る友達と知り合えた時のあの歓び!

 生涯にそう度々出くわすことのない、それは至福のチャンスなのではないでしょうか。

 私の場合、これはもう七十年以上も昔のことになるのですが、知り合えた、というよりも繋がりを得たという感じ、なのですが…

 一九三二年生まれ、つまり《一歳年下》の兄嫁…との出会いがそうだったのです。

 歳が近い、ということは同じ時代を生きてきたことで、お話もお互いに分かり合えるし、まるでクラスメートのようにお話がはずむのでした。

 結婚したのも半年前後の違いでしたから尚更でした。

 新婚時代、初めて兄の新居を訪れた時、兄嫁はその当時…(つまり戦後間もなくの、日本中が不如意な時代)にはまだ珍しかったレコードプレーヤーをすぐにかけて聴かせてくれました。当時流行っていた「ラ・メール」という、明るいシャンソンでした。

 大好きな歌でしたし、それをすぐに聴かせてくれたことも、私の緊張をほぐすにぴったり。しかも

 「これ買う時ね、贅沢だ!とモーレツに反対されたんだけど、私、《他のことはなんでも我慢するから買ってェ!》っておねだりしたのよ・・・」

 笑いながら肩をすくめるのです。

 そんなことから兄嫁の性格もすぐに掴めて、とても嬉しかったのを覚えています。

 やはりその予感は的中!

 子どもが成長した晩年には二人共通の趣味である劇団四季とか宝塚とか、それも都内のビジネスホテルに二人きりで泊まり込みまでして見に行きました。 そんな大好きな兄嫁が…もういないのです。

 この二月、曽野綾子さんと殆ど時を同じくして天に召されました。

 しかもその夫、つまり兄が亡くなってからわずか半年足らずだったのです。

 暫くは全く信じる気にもなれずただ茫然…の態でした。

 なんせあのコロナを跨いだせいで、往き来もままならないここ数年間でしたから。

 時折り電話で話すこともありましたが若かりし頃のような長電話には至らず、お互い近況を話すのがやっと、という寂しさだったのです。

 ここで思い出されるのが、嘗て電話での長話の折り、兄嫁の漏らしたユーモラスな一言…

 あれは多分お互い還暦を過ぎた頃だったと思うのですが

 「私ね、自分の結婚、ホームランだったと思ってるのよ」そういうのです。

 羨ましいというよりも、兄はなんて幸せ者なんだろう!そう思いました。

 ずっと専業主婦で、お料理も抜群!の兄嫁でしたから。

 逆に私といえば、長年音楽と向き合ってきた仕事人間。自分ではずいぶん頑張って生きて来たつもりなのに、どう考えても義姉にはかなわない!そう思う事がしょっちゅうなのでした。兄嫁には持って生まれた大きな何かが備わっていたに違いありません。

 ですから自分の結婚をホームランと感謝したかったのはむしろ兄の方。心置きなく仕事一筋、しかも百歳の天寿を全うしての穏やかな旅立ちだったのですから。

 私の人生に大きな影を遺してくれた人。私にとっては兄嫁であり友人であり、よき姉でもあったひと。

 今までずっと読んでもらっていたこのきらこも、もう読んでもらえない!そう思うとキイを打つ手にもチカラが入りません。

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