さくらの花が散って、淋しくなったなと感じていたら、庭の隅で、咲いている二輪の赤いつつじの花を見つけた。赤いこのつつじ、儀ちゃんの実家の庭にあった木を頂いて来た事を思い出した。その時はまだ一メートルの半分位に感じられた小さな木だった。
私の育った市原の山奥の家には、つつじの木がいっぱいあった。赤や薄紫の花が、季節が来ると一斉に咲き、それは、それはきれいだった。私は、どこかつつましさを持っている花だなあと感じて何故かこの花が好きで、一日何度も一人で眺めていた記憶があった。だから、このつつじも儀ちゃんと結婚して、初めて儀ちゃんの実家を訪ねた時に「これはつつじだよ」と聞かされた時、どうしてもこの木が欲しくなって、四街道の家へ頂いて来て植えた木だった。あれから数十年の月日が、いろんなことを忘れているんだなあと私はつくづく思った。そう、儀ちゃんがこの世を去ってからすでに十二年たっている。儀ちゃんとは、プロポーズされて三日目に結婚しました。そして、その一か月後に、四街道の儀ちゃんが住んでいる家に引っ越してきたのだった。私は小学校の四年生までは、市原に居たがその後はずっと東京で暮らしていた。そして、学校を卒業した二十二才の時から、虎ノ門で喫茶店を始めた。父も母も大反対だったが、父の方が、しぶしぶ、お金を渡してくれた。父も母も、どうせすぐつぶれるだろうと思っていたのだろう、ところが、何の経験もなかった私だが、その後日本料理店やクレープの店や洋食店などを開き、銀座にクラブも出した。店は七店舗になっていたが、私も四十才になっていた。そして、父も他界していた。そんな時に突然の儀ちゃんからの結婚話。儀ちゃんは大分前に奥さんを亡くし、娘さん二人が結婚してしまった。私の父も儀ちゃんも銚子商業の卒業生なので古い知り合いではあったが年齢も離れているので、結婚相手等と考えたこともなかった。だが、母は「お願いだから、結婚しておくれ、私を安心させておくれ」と何度も言う。「すぐに帰ってくるかもしれないよ」私は母にそう言って、商売を全部やめて結婚することになった。多分、私がその結論を出せた原因は、四十才になった事と父を失ったことだと思う。
四街道という所へ行ったこともなかったし・・・・。突然の結婚に驚きながらも、お客様も友人も従業員も皆喜んでくれた。店は全部処分することにした。でも、一か月しかないので、大安売りになったが、私は商売への未練を断ち切ったので全部やめた。五百人ほどの皆様が集まってホテルで大パーティーを開いてくださった。とても嬉しかったが、私は商売をやめることへの淋しさが一挙に押し寄せて来て、調理場の中へ駆け込み泣いた。幼い時から泣かない子供で、本当に泣いた経験を持たない私なのに、止まらない涙に困った。そして、大勢の皆様に見送られ、私は四街道へ向ったのだった。
儀ちゃんは、思ったよりやさしい人で、ホッとしたが、私は家事の何一つ出来ない。まず、食事作りにも困ったが、掃除や洗濯にもうろたえた。だが、何も出来ないことに、驚いたのは儀ちゃんの方だったろう。洗濯機の使い方や掃除機の使い方も教えてくれた。それにしても、一日中、朝から晩まで働いていた私だもの、家の中に居るのが辛かった。本の好きな私は、本を買ってきて、積んでおいていつ読めるのかなと思いながら眺めていた日々だったけど、いざ、ひまが出来読めるとなると、そんなに読みたいと思わない。人間て不思議だなあ、と思いながらぼんやりあまり見なかったテレビを見ている日が多かった。
毎晩、銀座のネオンの下にいた私には、四街道はとても田舎に感じられ、正直に話せば島流しになったような気持ちだったのだ。朝七時のモーニングサービスから、深夜一時過ぎまで営業しているクラブでの仕事、土日は休んだが、その休みの日は新宿店に行かなければならなかった。一日中人に触れあって過ごしてきた身には、急に儀ちゃんと二人の生活は、なかなか慣れなかった。
だけど、だんだん月日を重ねていくと、いつかそんな生活に慣れていった。そして気が付いたら専業主婦の生活にどっぷりとはまっていた。そんな頃、東京での生活の折、よく店に来てくださっていた朝日新聞の方から電話を頂き、千葉に朝日カルチャーが出来るので、何でもいいから一講座入ってほしいと言われた。いろいろの教室の中から俳句を選んだ。ところが俳句教室は満員で、仕方なくエッセイ教室に入った。
文章を書いた事もないし、エッセイというもの本当のことはわかりもしなかった。だが、週一回、教室に通うのは楽しいし友達もできた。だから休まず通い、週一度提出する宿題も必ず書いた。書くことは少しも苦にならなかった。ある日出版社の方が訪ねてこられて、「これを本にしませんか?」という話をされた。私の宿題を教室の先生が「ちょっとおもしろい人がいるんだけど」と出版社の方に読んでもらったらしい。
そして思いかけず私の一作目の本「八丁堀ものがたり」が出版された。少しばかり売れたので続いて二作目「西銀座ものがたり」が出版された。その後、私は、エッセイ小説を書き始め、本も十冊以上出しているし、芝居になった物語もある。これまで経験がなかった書くこという仕事が加わった。本を読むのは大好きだが、自分が書くなんて思ってもいなかった私なのに書き始めてみると、少しも苦にならない。
幼い頃の思い出話や儀ちゃんとの生活風景など、考えつくままに、暇があれば書き続けた。私が何か書くことについては儀ちゃんは反対もしなかったが、「俺の悪口は書くなよ」と常に私に言っていた。悪口は書かないけどホントの事はいっぱい書いた。すると「儀ちゃんもの」と呼ばれていたこのシリーズの注文ばかり来る。「忍の一字」に名前を変えて三越劇場で上演されることになった。儀ちゃん役は若林豪さんが演じて下さった。すでに儀ちゃんは亡くなっていて儀ちゃんと若林さんは面識が無いのだが、若林さんは、私に生前の儀ちゃんとのクセや話し方などいろいろ聞いた。そして当日の舞台の上で、それを生かした演技を披露した。
儀ちゃんの仲良しが大勢劇場に来てくださったが皆さん、儀ちゃんを思い出したと言って、涙を見せておられた。若林さんに深く感謝した私だった。
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