今年の夏はお墓参りにも行けなかった。
私の実家は市原にあり、お墓も市原にある。母が亡くなってからは、家族は誰も住んでいない。庭の手入れと家の掃除をしてくれる小父さんと小母さんがいたが、二人とも亡くなってしまった。実は、長男である上の弟がとっくに継がなければならないのだが、彼の仕事の立場上等、なかなか実行できていない。
彼は、大学卒業後、博報堂に入社したが、一年もしないうちに当時の文部省から、柔道を教える役目が来て、フランスに渡った。彼は、小学校三年生から習い始め明治大学柔道部へと柔道に専念して、オリンピック代表候補になったこともある。フランスは、二年と少しで帰国したが、すぐにサウジアラビア行きの話が来た。休職していた博報堂をやめて、弟はサウジアラビアへ行く事にした。出発までのあわただしさの中、彼は、親戚だけを集め明治神宮で結婚式を挙げて、簡単な食事会を私が当時経営していた八丁堀の料理屋でやった。弟の嫁は、三つ年上の姉さん女房だった。知り合ったきっかけは、彼女の従弟がやはり柔道をやっていて、明治大学の同級生だった。仲良くなったきっかけは、弟がまだ大学生の夏であった。
当時私と弟そして妹の3人は親もとを離れ、中野に暮らしていた。父と母は暑さを避け、軽井沢へ出かけていた。父の姉である伯母さんから電話が入った。電話の内容はがんセンターに入院している伯父さんの具合がひどく悪いので、出来たら病院に来てほしいとの話だったが、両親に連絡はしたが遠方なので、すぐには病院には行けない。相談して、私達三人で病院に出向くこととなった。伯父さんは私達のことはわかってくれて、弱々しい声で「ありがとう」と言ってくれた。私たちは少し安心して、「父と母は、明日来られるそうです」と告げて、病院を後にした。
弟が言った。「せっかく出てきたんだから、銀座でゆっくり散歩してから帰ろうよ」私はもちろん大賛成で、「そうしよう、そうしよう」と答えた。三人でゆっくりと銀座を歩いて四丁目あたりに来た時だった。向かい側から、若い女の子を三人連れた男の人が歩いて来た。弟の又五郎が突然、「あっ、飛島だ。おーい、飛島」と大声で呼びかけた。同時に向こうも気が付いたらしい。「おっ、又五郎ー」と叫んで、速足で近づいて来た。 彼は又五郎の同級生で、女の子たちは彼の従妹だと言う。四姉妹の内の三人だそうだ。一番上のお姉さんはすでに結婚して、子供も一人いると言った。三人ともみんなきれいな女の子だった。せっかくだから、一緒にお茶でも飲もうと言う話になり、喫茶店に入った。三人の女の子たちは青森が実家だが、上の延子さんはドレス姿でデザイン画の先生だそうだ。上の妹さんは大学生、下の妹さんは高校生、三人で親が借りてくれた家で東京暮らしをしていると教えてくれた。それが始まりで、私たちは時々、会うようになった。又五郎がフランスへ旅立つ時は、飛島君が延子さんを連れて見送りに来てくれた。その時私は初めて、又五郎と延子さんがお付き合いしていることを知った。
延子さんの実家は青森の五所ヶ原というところでデパートを営んでいるそうだ。彼女はそこの主任デザイナーになるためにやはり、一か月後、フランスへデザインの勉強に行く話をしてくれた。フランスから帰国してすぐに二人は、式を挙げた。その際に、弟は、市原に、いずれは帰り、後を継がなければならないので、延子さんとご両親をまず市原の家へと案内した。「こんな山奥ですが、延子さんもここで暮らしていくことになるのですが、どうか、その点は認めてください」と母が告げた。延子さんのお父様は、「ここは、いい所ですねえ。静かで、空気もきれいだ。延子は幸せですよ」と言ってくださった。それから、半年位でサウジアラビアへ行ったのだが、彼女は、しっかりと一緒に行ってくれた。それから十年。二人はサウジアラビアで暮らした。
一度、彼女は出産のため、半年ばかり日本に居たが、赤ちゃんを連れて又、サウジアラビアに帰って行った。その赤ちゃんが、又五郎の息子、又十郎だ。又十郎は小学校一年生の時に三か月ばかり
日本で暮らしたが、日本語よりも英語の方か上手な子供になっていた。やがて、サウジアラビアでの勤めが終わり、日本に引き揚げてきた。
一家は市川にマンションを買い、日本での生活を始めたが又、アフリカのナイジェリアに行くこととなった。私の両親は、「延子さんと又十郎は日本で暮らせば」と勧めたが、彼女は「私たちは家族ですから、やはり一緒にまいります」と旅立った。それから三年余りナイジェリアから帰国した弟は講道館に勤め始めた。
彼の人生は、柔道とは切り離せないものとなっている。市原に行かねばならないのだが、なかなか、市原には帰れず月日は過ぎていった。だからまだ、市原の実家は、そのまま、今はさみしい限りだ。父も母も、天国で早く帰ってくるように弟に呼びかけているかもしれない。でも・・まだ柔道に関わっている彼に、私は何も言えない。
又五郎の生きがいは柔道なのだろうから。
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