KIRACO(きらこ)

 子どもの頃、私は身体が弱く病気ばかりしていたようで、お医者にも「この子は、もしかしたら二十歳まで生きられないかも知れない」と言われていたらしいのです。

 それがなんと!あと数年したら百歳に手が届きそう…とは。

 でも体力の衰えはいかんともしがたく、外へ出る時には転ぶのが怖くて、杖を頼りにのろのろ歩き…というありさま。それでも矢張り引きこもってばかりいては足腰も弱まる一方。出来るだけ外出するよう心がけています。

 昨日も、たまたま手に入った大相撲のチケットで千秋楽を楽しんで来たのですが、そんな時(大相撲を見に国技館に来れるのも、これが最後だろうな)そんな思いがどうしても頭を擡げるのです。まさに老人的発想です。

 長い生涯には、色々なことがありました。決して楽しいことばかり…ではありませんでした。

 人間の記憶というものは不思議なもので、今の私は数時間前のことさえ思い出せなかったりするのに、もう何十年も昔のことがまるで昨日のことのように鮮明に蘇ってくるのです。…

 戦争が終わってリュック一つで初めて日本の土を踏んだ十六歳のあの頃。

 貧しくて、本来ならば最も楽しいはずの「青春時代」も私にとっては何より辛い「暗黒の時代」だったのです。

 でもそれが私にとっては頑張りの原動力になったかもしれません。

 人生いろいろ…誰にだって起伏は付いて回るもの。《終わりよければすべてよし》と、そう想うことにしています。

 それにしても本当に何でも《逆さ》が好きだった私。まだ小学校にも上がらない頃から、短いけれど回文ことばを作っては楽しんでいました。

 そうそう《手鏡遊び》ってのも…。母の大きな手鏡で天井を映しながら部屋中を歩き回るのです。

 そんな私、結局最終的には「逆さ歌」などというものに巡り会い、テレビは勿論のことYoutubuにものめり込んだ後半の人生でした。

 そのきっかけが可笑しいのです。四十年以上も昔、私がまだ五十代前半だった頃、テレビで或るコンテストの出場者を募集していました。

 合格者七~八人という狭い枠めがけて大勢の女性が詰めかけていました。そのコンテスト、一等は当時人気絶頂だったハワイ旅行だったのです。キャッチフレーズも《何でもいい、他人とより優れた特技を持つ女性よ来たれ!》というわけで、なんと女性アンパイアからアイスクリームの早食いまで、大勢の女性が押し掛けていました。

 そんな中絶対の自信を持って臨んだ私の特技、それが長い回文でした。

 時折り新聞の笑文芸コラムにも採用されたり、あの太田出版から回文の本を出して下さるというお声がけを頂いていたりと、自信満々だったのです。

 審査員のほとんどがOKサインを出して下さったのに、ただ一人審査委員長だけが「いやこれはテレビには映像的に地味だ」という理由であえなく落選!

 絶対の自信があった私、思わず審査委員長を睨みつけていました。

 そのあと半泣きで退場しかける私をその彼がニヤニヤしながら呼び止めたのです。「悔しかったら歌を逆さにでも歌ってみたら?」と。しかも「もし三日で逆さに歌えたら合格にしてあげますよ」と…

 でもそれは如何にも「出来るわけないよネ」という揶揄いのニュアンスむんむんなのでした。

 それから私の挑戦が始まりました。メロディーは音符を後ろから歌えばOKですが問題は歌詞です。

 小学唱歌の《茶摘み》で取り組み、冒頭の《夏も近づく》をクヅカチモツナとして歌ってみても全然違うのです。

 三日目の夜、私は「疲れたア!」とソファーに倒れ込みました。

 その時ふと「あれ?今、私《疲れた》と言ったけど「つ」は一瞬ですぐ「ウ」に変わっている!次の「か」もそう、《ア》に変わっている!そうだ、ローマ字に直せばいいのかも。《NATUMOTIKAZUKU》⤴「ウクザキチョムタン」?

 メロディーをつけながらレコーダーに吹き込んでみました。逆再生してみると?

 そう、それはまさに逆さ歌誕生の瞬間!だったのです。

 というワケでそれがきっかけで私の人生の後半、大きく変ったのでした。

 今現在、伴奏をつけながら逆さに歌が歌えるのは日本で私一人なんだそうです。

 もしあのままスンナリ、回文だけで合格していたら今頃私は?

 いえいえ、ナカダのことです。もっと面白い後半人生をモノにしてたかも!

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