今年は暑い夏が続き、秋がないまま、冬が来てしまったような変な年になってしまった。洋服も、何を着たらいいかと迷う毎日だ。年々、年齢を重ねているのに、私は自分での自覚がまるでない。人と会うのも好きだし、おしゃれをすることも大好きだ。お化粧もむかしのまんまだ。
お化粧をはじめたのは、中学三年生の頃だったろうか?現在でいうならスカウトというのだろうか?新宿西口で、知らないおじさんから「お嬢さん、テレビに出てみる気持ちありませんか?」と声を掛けられた。出された名刺を見ると「日本テレビ」とあったが、もしかすると、インチキかもしれないという気がした。私は「けっこうです」とことわりを言って、歩き出した。すると、その男性は「お嬢さん、ちょっと待って。僕はあやしい者じゃないから」と私の正面に回って、私の歩きをふさいだ。
私はおじさんの全身をあらためてながめる。紺色の背広を着た三十代半ばと見えるおじさんは真面目そうに見えた。そしてその人は、「お嬢さんのご家族は何処?お家まで行って、ご両親にきちっと説明するから」と早口に言う。結局、おじさんの説得に負けて、タクシーに乗って、自宅へ案内することになってしまった。当時、私は両親と離れて弟と妹とお手伝いさんと書生と中野坂上で暮らしていた。
両親は市原に住んでいた。東京で教育を受けさせたいという両親の希望での別居だった。私は小学四年生、弟は三年生、妹は一年生だった。最初の内はやはり淋しかったのだが、すぐに東京暮らしにも慣れていった。両親も時折来てくれていたし、丁度その時は両親が来ていたので、私は両親に言葉短くそのおじさんの事を話した。応接間に通されたおじさんに母がまずお茶とお菓子を運んで来てから、父が現れた。そこでおじさんが事情を話しだした。
「実は来月の一週目から始まる【のど自慢・腕自慢】という番組にぜひ、お嬢さんをおかりしたいと思いましてこんな時間にお邪魔してしまいました」とおじさんが言い出した。「テレビと言ったって、うちの娘はなにもできませんよ」と父が言った。「いや、演技なんて必要じゃないんです。言わば、司会者のアシスタントですから」「でも、この子はまだ学校もありますから」と母が小声で言った。すると新津さんと名乗ったその方は「大丈夫です。日曜日の夕方の放映ですので、午後一時までに局に入っていただければいいのです。ぜひ、お願いします」とその方が頭を下げる。私はそのくらいのことなら私にも出来そうだなと思った。
しばらく、無言でその方の顔を見つめていた父が「新津さん、失礼だが、千葉県の出身じゃないですか?」と聞いた。するとその方はビックリした顔になり、「ええ、私は千葉の房総の出身です。父は判事をしております」と答える。「やっぱり、そうですか。どことなく、お父様に似ていらっしゃるので、思い切ってお聞きしたのですが、それはうれしい。お父様には昔、大変お世話になった事があります。ご子息様とお知り合いになれるなんてこれまた喜ばしい話じゃ、お母さん、早くお酒の用意をしなさい」と母をせきたてた。母がすぐにウイスキーと水とグラスを持って現れる。後からお手伝いさんがピーナッツと三つ葉のお浸しを山盛りにいれた大どんぶりを持って現れる。「今夜は思いっきり飲みましょう。新津さんのご子息なら、お酒は強いでしょう?」と尋ねた父に「ええ、私も飲めるほうですから」と彼が答える。「それはいい、なあに、娘のことならお任せします。何もできないでしょうが、仕込んでやってください」と頭を下げた。その後二人は、ウイスキーをロックで飲み続け、いいご機嫌になっていた。そのようないきさつで、私のテレビの出演が決まったのだ。
二日後、私は母に連れられて日本テレビに初めて行った。ディレクターさんをはじめいろんな方にご挨拶をした。私のやることを説明して頂いた。司会者の脇にいて、出演者に賞品を手渡したり、ちょっとした言葉を言うだけだったので、私は大安心。いろんな方から、可愛いとか、イメージにピッタリとか言われ、不思議な気分になっていた。そして、出来立てのソフトクリームを食べる場面が加わったので嬉しかった。それがきっかけとなり、他の局から、コマーシャルの話がきた。その頃のコマーシャルは生放送が多かったので、原稿を暗記するのがたいへん。
でも何故か私は、暗記には慣れているというか得意の一つだから、そんなに苦にならなかった。大した役ではないけど、映画の話もきた。そのため学校を休む日が多くなってきた。当時私が通っていた中学は幼稚園から大学まで行けるミッションスクールだったので、そのまま続けていたのだが、休みが多くなってきた私に対して同級生の親御さんたちから批判が出てきたようで、私は受け持ちの先生から注意を受けた。ショックだった。私はこのままでは、この学校にいられないと思った。いや、通学する気もなくなった。
ハッキリ「退学します」と言って学校を出た。父と母に電話を入れて全部話した。母が驚いて、市原から飛んできた。母は私の話を聞いて、その夜は遅かったせいもありそのままだった。翌日、私は学校へ行かなかった。ところが午後になると受け持ちの先生が家に来た。母と別間で長時間話して帰られた先生が持ってきた話を母は私に話してくれた。「三学期だけ通えば、あなたも中学卒業になるのよ。だから三か月だけ今の学校に残り卒業してから、他の学校に高校生として入学したほうがよいのではないかとおっしゃったの。そして、先生、謝っていらしたのよ。少しひどいこと言ってしまったかもしれないと、謝っていらした。そうしなさい。三か月じゃないの、我慢してあの学校を卒業して、他の高校を受験してみなさい。それが、一番だと思うよ」と勧められた。私はホントに嫌だと思ったが、仕方なくその学校へ通い卒業式に出た。何一つ話をしなかったのに、クラスの中には勝手な想像をする人もいて、私が宝塚に入っただとか、映画界に入っただとかのウワサ話が流れていたらしい。
宝塚は大ファンだったので受けてみたいと少し思っていたが、父が大反対。私は父が大好きだったので、父がダメということはやめようと思った。受かりっこないのもわかっていたし。
他の私立高校に通い始めたころから、家から歩いて三分のところに「写眞大学」というところがあり、時々モデルを頼まれるようになった。授業時間のモデルもあれば外での授業もあった。そんなことをやっているうちに大学の教授の方から「サクラ・フィルムで撮影会のモデルを募集しているから、受けて見るといい。いいアルバイトになるよ」と勧めていただいた。当日行ってみると、キレイなお姉さんがたくさん来ていた。これじゃダメだなと思っていたが、一応、カメラテストと面接の試験を受けた。何故か、受かってビックリした。そこで初めて、お化粧の方法などを丁寧に教わった。そのお化粧を今でも、私はしている。そして、このお化粧はこれから先も続けていくつもりだ。
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