あの日から、もはや三十年近くも経つというのに、初めてKIRACOという本に出会ったその日のことは、今も鮮明に私の脳裡に焼きついています。
その頃私は小さな朗読のサークル《クインテット》に入っていて、並み居る先輩たちの流暢な音読を、NHKの『アクセント辞典』片手に熱心に学んでいました。
思えばその頃の私、まだ六十代半ば。人生のピークと言っていいくらい、活動的で意欲的……というか、生きることに《貪欲》だった気がします。
当時私は自宅でヤマハ直属の音楽教室を開いていて、いわば兼業主婦でした。
孫を含めての六人家族とあれば、そうでなくても手いっぱいの忙しさ。キリキリ舞いの日々だったのですが、だからこそ、この朗読サークルでのひと時は何ものにも代え難い「至福の場」であり、頭脳活性化のいい機会でもあったのです。
それまで、教室での発表会を年に一度、近くの市民会館(現在のプラッツ習志野)を借りて開いていたのですが、折角の立派な舞台、ただ生徒にピアノを弾かせるだけではもったいない気がして、毎回生徒たちにミニミュージカルのようなものを演じてもらっていました。
今思えばそのバイタリティに呆れるのですが、シナリオから作詞・作曲、ダンスの振り付けに至るまで、すべて私一人でこなしていたのです。
ところがある日、そんな私に横浜の、とある人形劇団の方から突然連絡がありました。
「劇団で使った古い人形、まだ使えるので、よかったら使ってみませんか? 『森は生きている』のもので、もう古いのですが」
ユメのようなお話です。私のミュージカルのことが偶然伝わったらしく、とても好意的にお声がけくださったのでした。
その実物大の、まるで生きているような美しい人形たちに、私は一瞬で虜になってしまいました。
それからはもう一直線……。
でも、さすがに私ひとりの手ではどうにもなりません。
第一、人形は実物大。子どもの手では持ち上げるのがやっと……。
でも、ここで諦めないのがナカダです。
地域新聞に事情を話し、「人形劇の助っ人募集」と載せていただいたら、すぐに十人もの主婦の方が名乗り出てくださいました。
実は……この劇は発表会で上演して一回限りで解散……のつもりでした。
それがなんと! NHKの《ニュース千葉版》でも取り上げていただけたことから、ボランティアでの上演依頼が次々と舞い込んできたのです。
今にして思えば、私、その時点で舞い上がることなく皆さんと相談すべきだったのです。
すっかり皆さんに甘えてしまっていた私でした。
ところがある日、連絡もなしに一人の方がお見えにならない。
「お忘れなのかな?」
くらいの軽い気持ちで電話をすると……。
そう、それは私にとって、ただ茫然とするしかない、ご主人からのお叱りの言葉だったのでした。
無理もありません。一家の主婦が練習でしょっちゅう家を空ける……。
とにかく平謝りでした。
もちろん、すべてはそこで「ストップ」。
《人の手を借りる》ということの難しさを、身をもって知った瞬間でした。
その後しばらくはぼうっとしていた私でしたが、生来の《表現好き》の芽はそう簡単に断ち切れるものではなく、悶々として眠れないまま、時々あの『ラジオ深夜便』を聴いては無聊を慰めていたのです。
そしてある時、突然気付いたのです。
《朗読……? そうか、これだったら誰にも頼らずにすむ!》
そうして辿り着いたのが、朗読ボランティアサークル《クインテット》だったというわけなのです。
そして出会ったKIRACO。
サークルのひとりの方が、
「この本、テープに吹き込んで、目の不自由な方に聴いてもらいたいですね。」
そう言ってみんなで回し読み。
そんないきさつから、我が家にKIRACOの編集長さんがいらしてくださることになりました。
その日はたちまち話が盛り上がってしまいました。
しかも、お帰り間近に何気なくおっしゃったひと言。
「中田さん、KIRACOにエッセイを書いてみませんか?」
もし「KIRACO」なかりせば、私はとうの昔にこの世から消えていたのでは――そう思いたくなるくらい、私にとっての生き甲斐でした。
まさに「河の流れ」のように、紆余曲折して辿り着いた長い長いこの道……。
この幸せ、いったい何に例えればいいのでしょう!
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