東照宮とともに
数年前、小二田誠二静岡大学教授の授業で、講談について講義をする機会を頂いた。高台に建つキャンパスからは、私の育った静岡市南部や駿河湾を見渡せる。その際、「山村」という私の本名を知った小二田先生から、「もしかして、この近辺に親戚でも?」「ええ、小鹿地区には父方の本家筋が。」「やっぱり。大学建設時に土地を提供してもらったお宅ですよ。」と聞きビックリ。後日、一族の歴史に詳しい親戚の古老、三浦の伯父さんに真偽の程を尋ねれば、「この有度山一帯は、石ころを投げて出島家と山村家で分け合った。
ご一新の頃、次郎長が辺りを開墾したいと言ってきたが退けた。あきらめた次郎長親分、富士を開墾したんだよ。」との答えに二度ビックリ。
そういえば、父方の墓地は、人を寄せ付けない、うっそうとした山奥にあるというのに、年号は江戸期の物が多く、そのほとんどが出島・山村両家の墓ばかりで、子供の頃から不思議に思っていた。墓参の折、改めて墓石を見てみると、山の斜面に階段状に居並ぶ墓地の頂に「出島竹斎翁之墓」とあった。
出島竹斎は、小鹿村に生まれた神職。明治のはじめに久能山東照宮の第一祠官、現在の宮司職を務めるなど、勝海舟らとも親交が。久能山東照宮は、徳川家康公の御遺骸が埋葬され、二代秀忠公の命により創建。
数多ある東照宮の創祀という全国屈指の神社だが、久能は母校の学区内で、東照宮の1159段の石段掃除を学校行事で行うなど、身近な存在。亡き師匠は勿論のこと、県外から来客があれば、我が家は決まって久能山へとご案内。石段の途中、山本勘助が掘った勘助井戸近くのボロ小屋で、ところてんをすすった事も思い出。家康公生誕四百五十周年奉祝祭では、中学生のチビ鶴が社務所で家康公の一席を演じた。
二ッ目昇進を期に後援会が発足。落合偉洲宮司が顧問に就いて下さると、家康公ご命日の4月17日に開催の御例祭にて一席の機会。徳川十八代御宗家の恒孝様・尾張様の御前で三方ヶ原軍記を口演した翌日、代々木上原駅千代田線車内で、恒孝様とバッタリ。しばしお話をさせて頂いたが、この偶然には驚いた。真打披露口上書の表紙は落合宮司の書。家康公の遺訓から堪忍の二字と、外国国王宛て書状に家康公が使用した印まで押印して下さった。
以後も、事あるごとにお客様を連れて久能山へ。いつも丁寧な解説をして下さるのは、姫岡恭彦権宮司。本殿の美しさはもとより、権宮司の造詣の深さに圧倒され、皆々大喜びで静岡を後にする。6月半ば、権宮司と再会。コロナで参拝者は激減。
「人がいないから」と普段は立ち入り不可の特別な場所(詳しく書けません)を御案内頂くうち、仙台東照宮の話に。宮司のご子息は久能で修業をされたと聞く。仙台の旅館千登勢屋に宿泊の際、主人の森谷和之さんが祭典委員長でもあるからとお連れ下さった東照宮。その千登勢屋からふいに便りが。同封の記事に「創業113年、コロナ影響で閉館」とあり、ガックリ。昨秋の仙台花座公演には夫婦揃ってご来場。女将・環子さんの手紙に「来仙の時にはお立ち寄りを」と結んである。社交辞令かもしれないが、いずれ森谷さんと仙台東照宮を再訪してみたい。
清水次郎長と竹斎翁周辺や、江原素六、後藤新平など、最近は、幕末~明治といった近現代史に興味がつきない。神君・家康公の御加護を得て、次々に講談化していきたい。
田辺鶴遊(たなべかくゆう)
講談師。8歳、田辺一鶴に師事し、「チビ鶴」で初高座。東海大学大学院中退後、前座修業。師匠没後、宝井琴梅門下。平成27年真打昇進。