KIRACO(きらこ)

Vol152 鉄人と呼ばれた父

2021年12月2日

一鶴遺産

昭和61年、歌謡ショウなどの舞台を主戦場とする司会者を中心に発足した日本司会者協会。
初代会長は、大道芸漫談で芸術祭大賞受賞の坂野比呂志師。
私の東京初舞台は、同年の浅草木馬亭公演で、ゲストが坂野先生だった。公演当日、隣の喫茶店で協会発足に向けての会合が。坂野先生のお声掛けで急遽親子で参加。その場で入会が許され、全国組織の為、父が東海地方のまとめ役に。7歳の私は最年少会員に。35年を経て、いまだに最年少なのだから面白い。発足記念パーティは上野精養軒で開かれた。一流歌手がズラリお祝いに駆けつけての華やかな宴に、各局ワイドショー等取材が殺到。子ども司会者の珍しさか、インタビューをきっかけに、フジテレビ「夕やけニャンニャン」木曜レギュラーに選ばれた。
翌年、この子の滑舌を良くしたいと、父は、長年の友人である亡き師匠の一鶴に相談。入門と「田辺チビ鶴」という芸名まで決めて帰ってきた。父は、名古屋で芸能社を経営。「小林実」の芸名で、表舞台に立つタレント業の他、養成所の運営にテレビ制作等々〝芸能なんでも屋〟を自認。亡き師匠の冠番組のディレクターを担当して以来、師匠と親交があった。マネージャーとしての父は、我が子の売り出しに必死。しかし、そんな父と、思春期に差し掛かった私との間には、葛藤が絶えなかった。

大学四年の時、父が61歳で亡くなった。芸能か、それ以外の道か。将来を決めかねていた私は、都内各所の講談会に、時折足を運ぶようになった。歴史が好きで社会科が得意。大学では、中学・高校の教員資格も取得。母校の中学で実習を受けた時、人前で話す事や、生徒の笑い声に、少なからず快感を覚えた。遠ざかっていた舞台、お客様の反応に、心を躍らせた記憶が甦ってきた。客席で講談を聞いているうち、「歴史の題材が多い話芸で、子供の頃の経験もある。ひょっとしたら、出来ないことはないのかも・・」。

現在も、上野広小路亭で続いている講談協会の昼席。終演後、ロビーへ出たその時、聞き覚えのある声が。出番はないが、楽屋に遊んでいた師匠だった。「ご無沙しております」「しばらくだね。お茶でも」と松坂屋近くの喫茶店へ。「お父さんの事聞いたよ。小林さんはある意味、鉄人だったね」「改めて講談をやってみたいのですが」「そう、それじゃあここへおいで」と、その場で紙ナプキンに書いたメモを渡された。両国亭で師匠が開く教室「講談大学」へ伺うようになると、「今度この子に芸名を付けるから考えて」と、生徒らが捻り出した文字から、「静岡が地元なら、こんな名前はどうだ」。駿府・駿河の駿の字を取って「田辺駿之介」。平成13年の秋、今からちょうど20年前の出来事。

年が明けて上京。江戸川区平井、師匠宅から目と鼻の先の四畳半一間。ここから、見習いとして楽屋に通った。講談協会などの寄席演芸関係団体は、昭和46年に日本演芸家連合を結成。司会者協会は、平成元年に加入の際、日本司会芸能協会と名称を改めた。私が講談協会の前座になる時、両協会への所属が問題に。連合内の他団体へ移籍の際は、三年の間をおかなければならないという。ただし、両協会へ同時に籍を置く場合、両協会の了承があれば差し支えないという内規があるとか。師匠は、当時の一龍斎貞丈会長に話をつけ、司会の方へも筋を通した。講談の基礎編「三方ヶ原軍記」も無本で読めるようになり、両国亭で行われていた本牧亭の興行で、前座としての初高座を終えた。

上野の講談定席本牧亭は、平成2年閉館。その後は場所を転々。建物は無いが、今も興行は継続している。つまり、定席を持たない講談の前座は、毎日通う修業の場が無い。私は、師匠宅一階の芸能書専門古書店「イッカク書店」の店番や付き人として、朝から晩まで師匠と行動を供に。浅草ROXに「まつり湯」。宴会場では歌謡ショウの他、演芸が毎日上演されていた。ここで師匠は、定期的に独演会を開催。鞄持ちで付いていた私に担当者が、「歌謡ショウの司会できる?ギャラは安いよ」。これがきっかけで、歌い手さん絡みの仕事が舞い込むことに。司会はもとより、幕間は、歌手や作曲家などをネタにした短い講談を作り、場を繋いだ。歌謡曲関係の資料は、イッカク書店に山のようにあった。

文化庁の助成金を目当てに、まつり湯と同じ六区の東洋館で、司会芸能協会月例公演が始まった。初回のゲストは一鶴。親子共演の場を作ってやろうとの計らいに、「司会者って優しいね」と師匠。この公演で毎月、機材を持ち込み音響係を買って出たのが、青空たのし師匠。うれしたのしの漫才で一世を風靡。岡春夫の専属司会も勤めていた大ベテラン。この時期、ハーモニカ漫談で新境地を開いていた。最近、次女の方から、8月24日に、入院先の名古屋で89歳の天寿を全うされたとの報せが。協会発足の当日、精養軒の楽屋で、一番最初に名刺交換をしてくれた大人が、たのし師匠だった。その後も協会公演や寄席、農協の営業など多くの現場でご一緒した。東洋館のたのしの会では「青空たのし伝」の創作口演の機会を頂いたし、私の二ッ目披露静岡公演では、一鶴と二人で花を添えて下さった。コロナ前、お見舞いに行くと、泣いて手を握り返してくれた。昨年、ふとお電話があった。高座復帰の意欲を語る、力強い声が思い出される。

二ッ目昇進を機に、静岡に後援会が出来たが、他にお世話になった方といえば、阿藤快さん。静岡放送の「愉快・痛快・阿藤快」に何度となく出演の機会を頂いたばかりか、都内各地で開催の駿之介の会に、毎回、大きなスタンド花を贈って下さった。浅草の真打披露にも花が届いた。しかし、これが最後だった。先日、阿藤さんの故郷・小田原へお墓参りに。あれだけお世話になっておきながら、初めて伺ったのは恥ずかしい限り。阿藤さんの所属事務所、北見社長に詳しい場所をお聞きした。その際、塩崎智晴さんというTVの構成作家が、阿藤さんの七回忌追悼のお芝居をされると聞きお邪魔した。歌にダンスに笑いに涙。出演の皆さんも達者で、阿藤さんへの思いあふれる脚本。また、足を運ばせて頂きたい。

小田原は、祖母が、戦後間もなくから静岡茶の行商をしていた町だ。母が跡を継ぎ、私の披露目の引き出物には、このお茶を入れた。初めは苺を売っていた祖母。市内の小林病院の院長に、「苺は季節の物だし、すぐに腐るから」と、静岡茶の販売を勧められた。父の芸名小林実は、この院長から勝手に頂戴したという。私は今回、小田原は十数年ぶりだったが、初めて小林病院の前に立った。父が導いてくれた芸能の道。子供の頃から数えて、四十年の節目の会を開く。師匠の十三回忌でもある。

田辺鶴遊(たなべかくゆう)

名古屋生まれ静岡育ちの講談師。2歳から芸能活動。8歳で田辺一鶴に師事。翌年、本牧亭で初高座。東海大大学院中退後、講談協会で前座。師匠没後は宝井琴梅門下。平成27年、真打。全国各地で講演の他、日本テレビニュースエヴリィ特集のナレーションなども。朝日新聞千葉版木曜朝刊の笑文芸欄「千葉笑い」選者。

<出演予定>問い合わせは・・TEL/FAX03-3681-9976(みのるプロ)

◎11月25日、浅草・木馬亭18時~「鶴遊の会」(40年記念)、当日3500円。特別ゲスト・橋本五郎(読売新聞特別編集委員)鶴遊と対談「歴代総理に見る人情」

◎12月8日、両国亭12時半~「年忘れ鶴遊の会+講談教室発表会」、2500円。ゲスト(漫談)牧野なおゆき(日本司会芸能協会副会長、森昌子最後の専属司会者)

◎NHK「ラジオ深夜便」話芸百選で「後藤新平伝」が12月放送予定。