薔薇ノ木二
薔薇ノ花咲ク
白秋の詠うように何の不思議もないのだけれど、その美しさに心打たれる。
手入れをしたといえ、薔薇の木に薔薇の花が咲く。芍薬が当然のように越冬し、同じ場所に同じ根から芽吹き伸び毎年初夏に同じ花が咲きこぼれる。何の不思議もないのだけれど。けれどそれは奇跡だ。
自慢でも謙遜でもなくあまり物欲がない。ないというより「そこにある」ということにただただ畏れ入ってしまう。存在を前にそれを所有するという気持ちが湧いてこない。
当たり前すぎてドイツ語が母語の人たちは何も感じないようだが、「そこにある」という表現を学び、ごく自然に使うようになってかなり経ってから、ある日ふと不思議な感動に包まれた。
英語表現は(ここはカタカナ表記でゼアとして)指示代名詞のザに場所の副詞辞エルを加えたものであるからまさに「ここにある」という感じを受ける。しかもその「あるもの」が単数か複数かで動詞が変化することもあって即物的にあっさり飲み下してきた。けれどドイツ語では形式名詞にゲーベン(英語のギブ)第一義が「与える」という動詞が使われるのだ。状況に呼応して「ある/いる」と訳されるが単語一つ一つを分けて直訳すれば「それは与える」になる。
ものがそこにあり、それが与えるものであるなら、誰が与えたのか、誰に与えられたのか、思いは漂い始める。有り難く、戴きます、言葉は自然にそう紡がれていく。信心があるわけではない。日々神仏に祈るわけでもない。けれど、ここにある、ここにいることは意思の力ではなく、人の力の及ばないところから与えられたものであると思う。
今手にあるものは全て有難いものだ。どんなものでも有り得ないという意味ですでに文字通り有難いものだ。だって自分では作れないものだから。何一つ、身の回りのどれをとっても。労働の対価として得る金銭で購えるといっても、モノを産み出すわけではない。飲み水の一滴すら私たちは生み出すことはできないのだ。
市民大学で書道の講座や料理教室をする。紙も墨も、醤油も米も、何一つ無駄にして欲しくない。実はときどき(過去の)経済大国の人間の驕りを感じて嫌気がさすことがある。もうかつての栄光はないんだよ、と言いたくなる。紙の一枚、米の一粒、自分で作り出せるのかと言いたくなる。研いだ米粒をこぼして平然としている、鍋底にこびりついた米を、余った材料を、小皿になみなみと出しすぎた醤油を「捨てちゃえば」と平気で言う輩には今後の講座の出禁を言い渡す。多分冗談と思っているだろうけど。かなり本気だ。
春先からまとまった雨の降った記憶がほとんどない。撒水しようにも地下の水位が低すぎる。庭の草木もプランターに植えられた花も次第に精彩を欠いてくる。この頃は石鹸を使わない手洗いなど洗面器に水を貯めるようにしている。洗顔もこうしてみると実際に両手に掬う量よりも無駄に流し放しの水量の方が遥かに多いことに気付かされ罪悪感を覚える。洗面器一杯の水はプランター一つ分になる。水道料金の多寡ではない。いつか飲料水も枯渇するかもしれない。雨乞いの祈りも忘れた現代人にはなす術もない。
薔薇ノ木二薔薇ノ花咲ク、その奇跡にもっと畏怖すべきなのだろう。
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