私には妹一人と弟が二人いた。一番上に生まれた私は両親や祖母が待ちに待って生まれた子供だったので、とても可愛がって育てたらしい。だが、小学校に入る前に、弟と妹ができていた。いつも三人で遊んでいた記憶が強い。私の家は市原だが、東京にも家があった。生まれたのは東京だが、戦争がはじまり、東京の家は空襲で焼けたそうだ。まだ赤ちゃんだったので東京の家の記憶はまったくない。だから私の幼い時の記憶は市原での思い出ばかりだ。
私の家は田畑、山等をかなり所有していたが、祖父の代から銀行、証券会社、鳥海女学校という学校も経営していた。私の父は七才で父親に死なれてしまったそうだが、家を守ってくれる番頭さんが、父が生まれる前から、居てくれたので仕事に精を出すような事はなかったらしい。何にしろ「あなたは、人のためになる事だけを考えて生きていけばいいんだよ」と、母親から言われて育ったらしい。やがて日本は戦争に入り父も出征したが、一年余りで家に帰された。結核が発覚したせいらしい。その頃はすでに船も木造船を作らねばならない事態になっていたので、率先して自分の山の木を切って物資として差しだした。
私が生まれた時に、父の長姉が嫁ぎ先から戻ってきた。サバサバとした小母さんは日本舞踊が上手で、生け花にも長けていて、薔薇の花を大切に育てて薔薇だけの庭を作ったりしていた。戦後も少し落ち着いてきたらしく、小母さんに再婚話が来て、小母さんは東京へ嫁いだ。上野百軒店の一つの老舗だった。後妻で小父さんとは大分年が離れていたが、歌舞伎とか、能楽の謡、仕舞など趣味が合っていたらしく、二人仲よくやっているらしかった。そして「庸子を東京へよこしなさい。責任もって育てるから」と電話をしてきたそうだ。戦争で焼けた父の家には、いくつかのバラックが建ってしまい立ち退いてくれなかったそうだ。私は、小母さんのところ行きたいとハッキリ言った。母は反対したが祖母が賛成してくれた。小母さんの家へ着くなり、早速、謡と仕舞を習った。祖母が送ってくれた素敵な着物を着つけしてくれて小母さんは歌舞伎に連れて行ってくれた。私は、歌舞伎見物よりも初めて口にした金太郎飴が珍しく、舐めては又、舐めて喜んでいた。総天然色の映画にも連れていってくれた。
謡も仕舞もそれなりに上手になった。そのうち小学校入学が近づき、小母さんと色々な学校に見学へいったりして結果、成城学園に入学が決まった。ところが、父親がきびしく「学校は実家から通いなさい」と言ってきた。
そのころ父は村長を務めていた。父は幼くして父親を亡くし、家長としての責任は子供の頃から厳しくしつけられていた。銀行を継がねばならないと思い銚子商業へ入学し、寮生活を送った。陸上部に入り、特に砲丸投げが得意だったらしい。父の一生のうち、この学生生活だけが一番楽しい期間だったのじゃないだろうか。卒業後父は明治大学へ進み、使われる経験も大切と言う母親の意見に従い、昭和産業という会社に入社してサラリーマン生活を送った。二年後退社、自分の会社にもどった。そして銀行・証券会社・女学校はすべてごく近い親族に経営を委ね、自分は代々続いている地主稼業を中心に新しく製材会社と材木会社を起ち上げた。その頃から日本は戦争状態に入っていたらしい。戦争が始まる少し前に父は母と結婚した。見合い結婚だったそうだ。母の言葉によると、自分の好きなことをやり抜きたいので結婚する気が全くなかったので断り続けていたが、仲人さんの熱心さに負けてしまったと言っていた。強く望まれた理由は、すでに亡くなっていた父の上の姉に私の母がそっくりだったのと家柄も文句なしの理由で祖母が嫁として迎えたいと強く望んでいたらしい。母は一年かけての説得に負けて結婚を承諾した。結婚式は東京で挙げたが、市原でも挙げた。母は市原の家にその時初めて行ったそうだ。八街育ちの母だが、初めて訪れた市原の家があまりに山奥なのでビックリしたそうだ。だが、「東京での暮らしが主で市原で暮らすことはまずないでしょう」との仲人さんの言葉を思い出し、まあ大丈夫だろうと自分に言い聞かせていたという。でも、やがて日本は戦争へと進み、東京暮らしを中断、市原の家に越すこととなった。私が生まれたことも市原行きを早めたのかもしれない。私は、赤坂近くにあった浜田病院で生まれた。その時に母の世話をしてくださった看護師さんが優しくて若くて良い方だったので、院長先生にお願いして、私の家で働いてもらうこととなった。その方は篠崎さん、戦争が終わり五六年たった頃結婚のため、いなくなった。今考えると、あの時代、母は弟、妹を出産している。子供たちはよく風邪をひいたりした。祖母は七十才近くになっていた。篠崎さんがいてくださったのでどんなに心強かったと思う。
戦後、行われた農地解放は地主にとても打撃を与えた。だが、私の父と母は「これでいいんだ。これで平等になった」と言い、村中の人に記念品を配った。番頭さんたちは「こんなひどい話はない。坊(私の父のこと)がかわいそうでならない」と言い続けていたが、父は「俺が頑張るから心配するな」といつも慰めていた。まったく田畑が無くなったわけじゃないが百姓の手伝いをしてもらう人はいなくなった。自分の農業を始める人、玉子屋さんになる人、炭焼きに専念する人と希望通りに辞めてもらったので、急に人がいなくなり寂しく感じていたが、一か月もしないうちに兵隊から帰ってきて帰る場所がない人等いろんな人が住み込みで入ってきたので我が家は前以上に人であふれた。戦後でまだ食べるものもない時代、農家でも白いご飯を食べている家は珍しかった。我が家は白いご飯を食べていたが父が「白いご飯を食べるのは申し訳ない、麦ごはんとおかゆにする」と言い出した。私は何故か麦が食べられなかった。麦だけ口の中に残ってしまう。私は部屋の真ん中で大の字になり「白いご飯にして。麦はいやだ!」と泣いて、手足をバタバタさせた。祖母が「お鍋で庸子のご飯だけ作ってあげて」とお手伝いさんに告げた。その時父が怒った「そんな我儘は許さん。お母さん、ほっといてください」と言った。祖母は「だって子供が食事できないなんて体に悪いよ」と泣きながら頼んだ。父は「なあに、二三日飯食わなくても死にはしない。食べられるまでほっておけばいい」と怖い顔で告げて、部屋を出ていった。私の父は他人にも身内にも怒ったことの無い人だった。誰でも頼まれれば助ける。夜は村の若い人がたくさん集まってきて、車座になって父を中心に天下国家について夜のふけるのも忘れ話をしていた。麦ご飯は今でも食べられないが、大人になってもあの時のことは恥ずかしい。父に叱られたのはあの時一度だけだった。
村の人が病気などで困っているときはその人の家に御馳走を配って回った。村でお祝い事があると父も母もどうしても出られない時は弟が6才と私7才になってからは代理で出席するよう命じられた。ご挨拶の言葉や座り方など細かく教えられた。大人になって、人前に出るのが嫌ではないのは、そんなことも勉強になっているのだろうと思う。市原の小学校は家から四キロの山道を歩かねばならない。子供の足にはつらかったけど楽しく通った。山里の春夏秋冬はそれぞれ美しかった。だが、私が四年生の二学期から弟と妹三人、東京へ転校することとなった。
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