すぐ近くの小さな公園にまだ年若い桜の木が二本立っていて、日々花開いていくさまを、散歩の都度楽しんでいます。
普段はあまり人通りもないのですが、たまにスマホを使って下から仰ぎ見る形でその桜を写している方がいて、ふと目が合ったりすると、思わずお互いニッコリ…そのひとが去った後も、私はそこにある古いベンチに腰掛けて、暫くの間至福のひとときを過すのです。
このベンチに座って一息ついていると、過ぎ去った若かりし頃のさまざまな出来事が次々と思い出され、(ああ、私、今まさに人生の《最終章》にいるんだなあ)と、しみじみ考え込んでしまうのです。
「あの日、あの人に出会わなかったら今頃私は…」とか、実に他愛もない過去のあれこれを、半分楽しみながら追いかけてみたりもして。
今日までの長い長い歳月…。当然人生の岐路と名付けたい大事な場面も数知れずありました。
そう、例えば亡くなった主人との最初の出会い。
なんとそれは十四歳の夏のことでした。
その頃私は台湾台北市の女学校一年生。太平洋戦争真っ只中!でした。
その頃はもはや授業は無くて「勤労奉仕」と名付けられた軍事作業に追われる日々だったのです。
日の丸のついた鉢巻を締め、「雲母剥がし」のナイフとピンセットを手に雲母《鉱石。キララともいう》の原石を丁寧に一枚一枚はがして行く。(それが何に使われるのか知らされることもなく)教室の後ろには見回りの軍人が常時立っていて、おっかない顔して私達の作業ぶりを見張っている。当然私語は許されません。息の詰まるような時間が流れていきます。時折り見張りの軍人が席を外したりすると足音の消えるのを待ちかねるように、私達のおしゃべりが始まります。その時でした。後ろの方の席から聞こえてきたお友達の声。
「ねえ知ってる?今、梅屋敷に特攻隊の兵隊さんが二十人も泊まってるんだってよ。飛行機が無いから内地から届くの待ってるんだって。でもね、飛行機が届いたら順番にみんな突っ込んで行かなくてはならないのよ… 怖いでしょうね。」
ショックでした。可哀そうなどと口にしたら叱られそうなご時世だったのですが、私には耐えられないくらい哀しい情報でした。
梅屋敷というのは私の家のすぐ近くにあって台北でも一、二を争う料亭でした。
女学校の行き帰りいつも通る通学路にあったのです。
そこは黒い板塀に囲まれた立派なお屋敷でした。お昼間でもいつもシーンと静まり返っていましたが、夕方になると大きな車が砂利道を軋ませながら何台も出入りし、時折り芸者さんが真っ白な襟首をあらわにして門のあたりに佇んでいるのが目に入るだけ。
その日の学校帰り、私はいつものように一人で梅屋敷の横を通り過ぎようとしていました。
もちろん料亭はシーンと静まり返って人の気配もありません。
「ああ、この奥に特攻隊の人が…」
考えただけでもう胸がいっぱいでした。
何故か私の足はそこですくんだように立ち止まっていたのです。
門からお玄関まで少し離れていました。玄関のすぐ前にはちょっとした築山があって、簡単に中が覗かれないよう、植木が植えられています。
気が付いたら私はいつの間にかその植え込みまで入り込んでしまっていたのです。
あの時、何故あんなことが私にできたのか?
それは未だに解らないのです。
ただ、十四歳の女の子が「特攻隊の人が二十人も!」という友達の言に心を突き動かされ、その痛みをどうしても押さえきれなかった!…
あれから八十年以上も経ちました。
その後の紆余曲折…そして不思議な運命!
料亭に忍び込んだ私を、料亭の中居のおばさんがまるで自分の娘のように
かわいがって下さるようになり、私は毎日のように遊びに行くことに。
そして終戦まで出撃の機会を待ち続けた特攻隊員のうち、生き残ったのは二十人中、僅か三人…でした。
スペースが足りなくて説明が雑になり、本当に残念ですが、その三人のうちの一人と、引き揚げてからも文通を重ねた私。そして八年後に私達結婚したというワケなのです。
主人が亡くなってもう二十五年にもなります。
あの年の桜の季節、主人を乗せて、この近くの桜並木を車でゆっくり走った日の事、懐かしく、切なく想い出しています。

