KIRACO(きらこ)

Vol137 ぼく、スマホになりたい!

2019年7月2日

中田芳子さんのエッセイが読めるのはKIRACOだけ

ぼく、スマホになりたい!

 もともと歴史には全く疎い私なのですが、時代の流れというか、その節目節目、例えば〝明治維新の頃〟に生きていた一般庶民はどんな気持ちでその変化を受け止め、その流れに対応していたのだろう?など、とても興味が沸くのです。
 それというのも、太平洋戦争が負け戦に終わった時点での、国全体の混乱、そして困惑が、今なお鮮やかに思い出されるからなのです。
 当時私は中学二年だったのですが、教科書は紙面が真っ黒になるほど墨で塗りつぶされていました。戦後の教科書として、不適切な内容だらけだったからです。
 学校だけではありません。
それまで日本は「神」の国である。と教えられ、「鬼畜米英」 と罵っていたはずの相手国アメリカの歌…ジャズなどが連日ラジオから流れてきます。
 (今まで教えられてきた事、あれは一体何だったのだろう?)
 今の世の中だったら、情報はネットを使って世界の隅々のことまで一発で調べあげることが出来るのですが、当時頼れるのは新聞とラジオだけ。
 そんな中、荒れた若者たちが引き起こす数々の暴力事件もあったりして、「あゝ、これでもう日本もおしまいだ」と、未来を憂う声も聞かれるほどの混乱が終戦直後にはあったのです。

 その意味では私たちの世代は、日本の大きな「節目」を体感し、その歴史的瞬間に立ち会ったことになります。
その時点で運命が大きく変わった人も少なからずいるに違いありません。みんなよくぞ生き抜いてきた…そんな思いがするのです。
 斯く言う私なども、若し戦争が敗け戦に終わらずにいたら、恐らく生まれ育った台湾にそのまま住みついていたに違いありません。
 そして今現在…実は私達はもっと大きな、それも「危険な節目」に立たされている!
 そんな気がしてならないのは私だけでしょうか?

 あれから半世紀あまりを過ぎ、私たちの身辺で一番大きく変わった事。そう、それは「IT」の台頭です。
 確かに便利かも知れない。今や人類はスマホ抜きではなにも語れないのが現状です。(そういう私もスマホを手放すのは夜眠る時だけ…ではあるのですが)
 スマホの出現はまさに地球上全ての人類の「節目」とはいえないでしょうか?
 その功罪は未知であり、しかも今後どのような拡がりを続けるのか、どこまで膨張するのか誰にもわかっていません。
 「ビットコイン」など、私たちには不気味としか言いようのないお金儲けの手段があって、知恵の働くひと達にとってはまさに一攫千金の有難い道具。
 さらに最近は役所に何か問合わせても「詳しくはホームページをご覧下さい」などと指示され、高齢者でITに縁のない人達との格差は拡まるばかりです。
 いえ、そんなことより遥かに恐ろしいのは、これから成長する子供達への影響です。
 先日も電車に乗っていて痛感したのですが座席に座って一様にスマホの画面を見つめる若者達。そこには個性の欠片もなく、養鶏場のニワトリさながら、同じ姿勢、同じ表情で指先を動かし続けている。なんとも不気味な光景。
もっと恐ろしいのは幼児を抱いた若い母親が、子供が何か訴えているのにも関わらず全く無視してスマホに熱中している姿です。
 更に驚いたのはぐずり始めたその子に、アニメか何かの画面を開いて見せたら瞬時に泣き止んでスマホを食い入るように見始めたのです。
 恐らく今後もその子はそういう育てられ方で成長していくのでしょう。
 ただ「恐ろしい」としか言えない「節目」が今全世界を襲っているのです。

 先日、長年保育士をしている姪が来た時に、この話をしたら、
 「四歳になる園児がね、こんなことを言うの。〝ぼく、スマホになりたい!〟って。何故?って聞いたら〝だってママいつもスマホばっか見ててボク寂しいんだもん。スマホになったらママは僕のことずうーっと見ててくれると思うんだ〟ですって」
 この先、この子たちが成長して大人になったときのことを考えると私は真っ暗な気持ちになってしまいます。
 全世界に訪れたこの恐ろしい、大きな節目!どう乗り越えるべきなのでしょう?