Vol143 千葉で戦った江原素六

千葉で戦った江原素六

1月、十周年を迎えた静岡講談教室の新春発表会が、静岡新聞文化面に大きく取り上げられた。八歳の生徒・渡辺希美さんは、妹・光ちゃんとともにカラー写真で掲載、ご近所でも評判になったそうだ。

父親の渡辺大輔氏は、大学時代からの親友。かつては落研に所属するなど、演芸に理解がある。彼が沼津市役所に奉職後も付き合いは続き、結婚式の司会は私が務めた。3月26日の上野広小路亭講談定席でトリを務める事に。演題を模索するうち、「沼津の偉人・江原素六を講談でやらないか?」との渡辺君の言葉を思い出した。

昭和37年発行「十二の証人(あかしびと)」は大師匠・十二代目田辺南鶴著。キリスト教の偉人十二名を講談化、“信仰の教育者”として江原素六を取り上げている。元幕臣で、明治・大正を通じて活躍した江原先生に俄然興味が沸き、渡辺君に連絡。地元顕彰会に話を持ち込むと、3月1日、土屋新一会長をはじめ役員の皆様に、沼津市内のお墓、ゆかりの地をくまなく御案内頂く事に。江戸生まれの素六は徳川家の静岡移住を機に沼津へ。

旧江原邸跡に建つ明治史料館(井原正利館長)には遺品はもちろん数多の資料を所蔵。三階に復元された江原邸座敷にて、賴重秀一沼津市長、土屋会長と鼎談を行った。沼津兵学校の設立、愛鷹山払い下げ運動等、士族授産と沼津の人々の為に奔走し、多忙だった素六の心の支えはキリスト教。かつて江原教会とも呼ばれた沼津教会(宮本義弘牧師)には飛び込みで伺った。政治家・江原素六の原点は、千本松原近くの乗運寺(林茂樹住職)での板垣退助との出会い。板垣に演説の巧さを見込まれた素六は東海遊説に同行。岐阜で、板垣遭難事件に遭遇している。この際、手当をした医師が後藤新平。やはり、板垣との出会いが政界へのきっかけとなった。

後に後藤は、岩手の後輩・佐々木次郎三郎に沼津行きを勧め、駿東病院長に推薦。公立駿東病院は、元は沼津兵学校付属病院で、素六が市民の為に存続させた。後藤は、同病院の看板を揮毫するなど何度も沼津を訪問している。

3月13日には、幕臣の素六が新政府と戦った市川・船橋戦争の足跡を辿った。市川博物館友の会・民俗部会(柳脩一郎部会長)皆様の御案内。驚いたのは、江原大隊の本陣が中山法華経寺にあり、お世話になった演芸評論家・故小島貞二先生宅とは目と鼻の先だった。激戦地、船橋市海神の念仏堂裏には、素六を組み伏せた福岡藩士・小室弥四郎の墓が。左足を負傷し、おたずね者となった素六が潜伏した山野浅間神社辺り等訪ね歩いた。

この日の様子が後日、朝日新聞千葉版に掲載されると、素六をかくまった旧山野村の方からお電話が。代々伝わる素六の秘話をお聞かせ下さった。当初は南鶴作の江原伝を土台とするつもりが、資料収集や各地を訪ねるうち、ほぼ新作の講談・江原素六伝に。初演の上野広小路亭には、沼津・市川・船橋の皆さんもご来場。江原先生顕彰の輪が広がり、沼津はもとより、先生創設の麻布中学、全国各地で口演出来れば嬉しい。