櫻日記(その一)
気がついたら、私の住んでいる四街道の市役所に通じる並木道の櫻が咲き切って、花びらが道路に散っていた。私はこの道を歩くのが大好きでいつも四月になるのを待ちわびていた。
だけど今年は櫻の開花が早くて三月のうちに咲いてしまった。私は櫻の花が大好きだ。日本人なら、たいていの人がそうだと思うけれど……。櫻の花には想い出がいっぱいつまっている。これまで、私は生まれた時から現在に至るまでのこと、あまりくわしく書いた事はないけど、今回は少しくわしくつづってみようと思いペンを走らせている。
私は市原出身の父と、八街出身の母との間に生まれた。現在でも市原が本当の家と言うのだろうか、私の家は昔から、東京と市原との二重生活だった。母は「市原に住む事はまずないでしょう」と、お仲人さんに言われて嫁いできたのにと、よく私の子供の頃口にしていた。私は東京生まれだ。そして物心つく頃には東京で暮らしていた。戦争が終わってそんなにたってない食料も着る物もそんなに揃っていない東京だった。何故そんな事かと言えば、両親は市原に住んでいたのだが、私をとても可愛がってくれた伯母が、東京へ嫁いだ。そしてすぐに私を東京で育てたいと父や母に申し出たらしい。私の家の東京宅は戦争で焼けてまだ再建してなかったので、両親は草深い田舎で私を育てるよりは、伯母がしっかり守ってくれるなら、東京暮らしをさせた方がいいと判断したのだろう。伯母の結婚相手もいい人で、私を我が子の様に可愛がってくれた。
家は、櫻上水にあった。櫻上水の両側に咲く櫻の花は、それは見事だった。幼かった私は、伯父と伯母に手をつないでもらって、花の美しさにビックリ目を見張った記憶がある。月日がたつ毎に東京はめまぐるしく変化していったらしい。まだ何もわからなかった私だが、歌舞伎に連れて行ってもらったり、うたいや仕舞いのおけいこをさせてもらう。
楽しくはなかったが、上手だとほめられると、嬉しかった。歌舞伎は少しもわからなかったけど、金太郎あめを買ってもらうのが嬉しくて、いつも喜んでついて行った。そのうち映画にも連れて行ってもらう。初めてみた映画が総天然色映画だった。そのうち私の小学校入学を迎える頃となっていった。市原の家から小学校に通うには四㎞の山道を歩かねばならない。伯母はそれがふびんだと言い東京の私学に入学させようと伯父と相談して準備してくれていたらしい。が、突然父から学校は両親の許から行かせた方がいいと申し出があったそうだ。当時父は、村長をおおせつかっていた。
伯母は「仕方がない。本当の両親のところから学校へ通う方がいいのかもしれないねえ。すぐ夏休みがくるさ。そうしたら東京へおいで」と言って、伯父と相談したらしく、赤いランドセルやクレヨンやノート等いっぱい買ってくれた。そうして私は市原郡平三村平三小学校の一年生となったのだった。
それから四年生の三学期東京の桃園第一小学校に転校するまで、私は村の子として野山をかけめぐってすごしたのだった。この経験は、現在でも私の良き体験となっている。
平三小学校での同級生は、ずっと仲良しだ。
それから私は、ずっと東京暮らしだった。
子供時代はずっと両親とは別れていた。両親と一緒に住む様になったのは、私が大学生になった時だった。
私は、学校卒業後一週間目に虎ノ門に珈琲店をオープンした。大反対しながらもお金を出してくれたのは父だった。
どうせ、長続きしやしない。一年もしないうちに投げ出すだろうと両親は考えていたらしいが、私はがんばった。何故か天職のように、一年後には八丁堀に和食の店を、その半年後には、銀座にも支店を出した。それから二十年余りの年月私はひたすら、客商売の道を歩き続けたのだった。朝から深夜まで、店から店へとび歩き、ひまな時間は少しもなかった。恋人どころかボーイフレンド一人いなかった。
もしいたとしても、ひまがなかっただろう。
私は結婚願望も少しもなかった。一番の喜びは、新しい店の開店日だった。たくさんの花に囲まれ私は本当に幸せだった。そんな或る日、突然私は吉成からプロポーズされた。古い知り合いだったがデートもした事なかった。母が、「ここらで商売やめて、身をかためて欲しい」と、強く言った。私はその前年父を亡くしていた。常に陰で、助けてくれていた父がいなくなったのは、私に少し商売を続けていくための不安を与えていた。
多分その気持が、私の結婚への気持を動かしたのかもしれない。