KIRACO(きらこ)

Vol153 誇り高き我こそは

2022年1月6日

独断独語独り言

我こそは、ここ西部の王者である。
日に日に無法地帯と化してゆくこの領土を守ることを使命とし、夜毎の巡視を怠らない。
雨が降ろうが槍が降ろうが氷点下10度未満、雪中強行であろうとも。

先ず我が家人を紹介しよう。一応の序列…年功とは敢えて言うまい。人間、馬齢を重ねれば自動的に功も積まれるとは限らぬではないか…で言えば執事のジェームズ、家政婦マリアンネ、剣闘士グラディアトル。
彼は近頃暇を出されたらしいが、週末には舞い戻る。
そして稀に通いの小間使いソーニャが現れる。
どうも彼らには生まれながらの名があるようだが、我関せず。
使用人は主人に与えられた名を名乗れば良い。
それぞれ役職に典型的な名を与えておる。

執事ジェームスには適宜我が外出に同道を許すが、主に留守居役である。
我が巡視中には特別玉座に座ることを許しておる。
男は敷居を跨げば七人の敵あり、武道の心得のあるジェームスに入念な我が身支度を任せておる。
特に喉周りは大切だ。七人の敵も弱者と見れば薙ぎ倒し、強者と見れば三十六計もこれに如かずという秘策を講ずる。
これは自身喧嘩っ早いマリアンネの訓戒である。

粗忽者のマリアンネは主に我が美容と健康管理担当。
王者のシンボル、毛皮の手入れも怠らずなかなかよくやっておる。しかし猫撫で声を出す割には態度が大きく、しばしば無礼にも我に説教などしよる。
実に怪しからぬ、が叱責しても我が玉音も猫に小判、無駄なので放置しておる。

剣闘士グラディアトルは島帰りだ。
昨秋東海の小島より戻された。
マリアンネでは相手にならず、闘いの訓練は専らが相手だ。しかしどうも真剣味に欠けるようで余り役には立たぬ。
いつか実戦に同行させようと思うてはおるが、戦利品を持ち帰るとマリアンネの機嫌が悪くなる。
かつて新鮮な獲物を下賜してくれたが、余りにも大騒ぎになり、もう二度と与えまいと決めた。
誠に恩知らずな連中である。

我が奉公人に一斉に暇を与える時には小間使いのソーニャが召出される。
奉公に不慣れなようで、我が大事の夜食を忘れたことがある。
腹が減っては戦はできぬ。
止む無く早朝帰還した。
彼女はキャリアを積んでいると聞いておるが、荷車に物でも積んでいるのであろうか。
何、綴り違いとな。そんなことは知らぬ。何れ細い身でご苦労なことである。

ところで、我が最も厭う言葉は「愛玩」である。
なんと尊厳を欠く言葉であることか。
これを平気で使う人間はこの語の意味を考えたことがあるのだろうか、疑わしいものである。
『玩』とは「玩具」ではないか。第一義が「もてあそぶ」だ。からかう、なぶる、慰みものにする、という意味だ。愛玩動物とは慰みモノなのか。

彼の国の民は実態を知らず、ドイツでは「殺処分がない」「動物愛護が行き届いている」などと褒め称えるそうではないか。が、コロナ禍にあって「動物保護施設」はパンク状態である。初めのロックダウンの頃、小動物が爆発的に売れた。ニュースでも「週にせいぜい3、5匹だったハムスターが自粛のため1日で15匹も売れた」とペットショップ店主がホクホク顔で語っておった。

在宅だから、自粛、規制で孤独だから、と「ペットでも飼うか」と多くの人間が思いついた結果である。
ミュンヘン郊外のある施設では2020年は前年より1000匹も多く保護された。

思いつきで飼われた「愛玩動物」たちが一時規制が緩和され、バカンスシーズンになると同時に保護施設送りになった。「捨てる」意識も「処分する」後ろめたさもなく、良心の呵責なく「置いていく」のだ。愛玩動物とは『自己愛のために玩ぶ慰み物』のことなのか。

日本でも驚いた。「人間に告ぐ、責任を持って絶対外へ出すな」という公共広告を流しておった。
誰のために、何のために。生きていることが迷惑をかけるというのか。安全のためなのか。

スイスでは行動の自由が尊重され、アパートの個々の住居のベランダをジグザグと結ぶキャットウォークが掛けられていたりする。

当然「愛玩」には大切にし可愛がる、慈しむという意味がある。
誰にとって何にとっての「愛」なのか、よく考えて然るべきではないか。

2022年は寅年だそうな。「室内の虎」ステューベン・ティーガーなどと呼ばれる。失敬な。

まるでイミテーション、ミニチュア、代用品のような言い方ではないか。否、我こそは誇り高き、歴としたそのもの、
吾輩は猫である。